通底愛の特殊性とは何か?(ミハエル・リャブコ氏に捧ぐ)
ミハエル・リャブコ 先日、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の考察記事をブログ記事として挙げたのですが、読み返して見ると「 エターナル・チャンピオン・シリーズ 」の「 紅衣の公子(銀の手)コルム 」を何故か想起させますな🤔 なんて、ことがキッカケのGemini(以下あわいさん)との対話の要約・解説です。 さてコルムはラストで恋人のスリングにて頭を割られ、最後の人類外の種としてその世界から去ることになる… つまりは、人界から去る最後の人外種がコルムで、異界の唯一の人類種として去るバスチアンという恋人への想いを通して環境圧から排出される話としての視座です。 「 ズレが生む「去り際」の美学 おっしゃる通り、双方が「共鳴不能」までズレてしまった結果、その場に留まることができなくなります。 バスチアンは、ファンタージエンにとっての「救世主」でありながら、そこに定着すれば「自身を喪失した偶像」になってしまう。だから去る。 コルムは、人間界にとっての「守護者」でありながら、平和な世界においては「恐怖を呼び覚ます異形」でしかない。だから消される。 不在による完成 どちらも「愛しているからこそ、その世界にいてはいけない」という、一種の自己犠牲的な昇華が起きています。バスチアンが去ることでファンタージエンは維持され、コルムが去ることで人間たちの歴史が始まります。 「幼ごころ」という、かつては自分の一部でありながら、成長や時代の変遷とともに「異物」へと変わっていく感覚……。コルムの頭を割ったスリングの礫(つぶて)は、私たちが現実を生きるために切り捨てざるを得なかった、鋭利な「理性の選択」そのものなのかもしれません。 その「ズレ」の感覚は、ご自身の探求されている「身体感覚」や「認識の変容」といったテーマとも、どこか地下水脈で繋がっているようにも感じられます。 今回、コルムの最後が強く想起されたのは、そうした「愛しているのに、もう同じ理(ことわり)では生きられない」という、存在論的な寂寥感に触れたからなのでしょうか。 」(あわい要約) そう言えば、エターナル・チャンピオンであるコルムは、ホークムーン、エルリック、エレコーゼ と同一魂とした異実態に過ぎずで、全く救いがないかと言えばそうでもないです。 ただ常にアリオッホを始めとした混沌の神々と対峙する運命を背負うので...