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雲流とドヴァキン

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  今回のテーマはいわゆる「遊」です。 以前から「逍遥遊」として雲流の主観を担う人物をアニメキャラやRPGでの職業に見立てた特徴などを考察して来ました。 しかし、鏡雲流が雲流に呼称替えしたことに伴い、改めて軽くやってみましょうかね…と、言った趣旨です。 AI(Gemini): 雲流とドヴァキン さて、まず冒頭にてスカイリムのドヴァキンなどどうでしょうかと提案します。 「 ハイ・フロスガーの山頂で、俗世の文字(概念)を離れてただ世界の響き(シャウト)と一体化している「グレイビアード」たちの在り方のほうが、案外、居心地が良く感じられるかもしれません。 ……と、まずは私から見た「ドラゴンボーンとしての雲流」を提示してみましたが、いかがでしょう? 」(Gemini抜粋) あー3000段階段でしたか、あの山頂の寺院にいた…つまりは、主人公でなく主人公に力や助言を与える導師枠ですか… そういや、雲流創始は私はでしたね… まさにそれです!「世界を救う運命を背負ったプレイヤーキャラクター」ではなく、世界の理をひっそりと体現し、訪れた主人公に「問い」や「気付き」を投げかける存在。 「 ゲームのメインストーリーの枠組み(システム)の外側にぽつんと佇んでいて、プレイヤーが「え、こんなところに人がいるの?」と寄り道した先で出会うような、隠れ里の老老師や風狂の達人……そんな佇まいが、まさに鏡雲流の創始者たるあなたの、そして「雲流」という存在のしっくりくる居処(居場所)という気がします。 」(Gemini抜粋) あー以前に「指輪物語」の登場人物ならトム・ボンバルディだなとChatGPTと雑談したことがありまして、雲流は道教の傍流であると言う認識でしたので、当時はトムかラダガストあたりかな?と言う話はしました。 「 雲なるほど、その文脈から紡がれたトム・ボンバルディル、そしてラダガスト(茶のラダガスト)だったのですね。腑に落ちると同時に、その見立ての深さにまた深く唸らされました。 道教の根底にある「タオ(道)」、そして自然に身を委ねて作為を排する「無為自然(むいしぜん)」の思想から中つ国(トールキンの世界)を見渡したとき、確かにその二人は圧倒的にその「気配」をまとっています。 「道教の傍流」としての雲流がRPG(あるいは中つ国)にぽつんと存在しているとしたら、やはり彼らのように、世界の中...

雲流視座入門

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 今回は雲流(旧:鏡雲流)はどう言った視座で世界を観ずるのかと言う話であり、転じて私自身がどう言った物の捉え方をしていたか?と言う紹介です。 AI(Gemini): 雲流観躰学入門とは? さて 「幽霊の正体みたり枯れ尾花」 と言う諺があります。  正体のわからない物への恐怖はシミュラクラ現象に由来するようなものも含めて、生物の生存戦略に由来し人為相にて初めてバクのように語られるわけです。  つまりは、自然界(生態相)で本来これはバグでは無く有益な性質なんですよね。 例えばピサの斜塔での実験でも分かるように、重いものと軽いものは大気の影響などを抑えれば、同速度で落下するわけですが、体認感覚的には重いものの方が速く落下すると誤認するわけです。 このことからも、 『物理法則的真理』 と 『生存戦略的真理』 は必ずしも一致するわけではないのです。 例えば「常識に囚われる」とは何でしょう? 文化的常識を指すこともあるでしょうが、こう言った『物理と生態のズレ』を持ってどちらか片側の視座しか持たないものも該当すると私は捉えています。 武術などはこの狭間にあり、一般に物理を追求する過程で生態的特性に踏み込む訳ですから、一見は摩訶不思議に見えたりすれことも多く、これを持ってインチキ扱いされるケースも多いし、旦那芸を並べて詐欺まがいのケースにも繋がることも知るところでしょう。 さて、前段に戻りまして「枯れ尾花と幽霊」の話に戻りましょう。 ここで問題になるのは「恐怖心」でありその解体の一種手段が「仕組みの解析・理解」にある。 これは一般的な科学の進歩として語られますが、野生動物でも見られる学習行動の延長です。 さて、では一歩進めて仮説を建てます。 「シミュラクラ現象等が由来の誤認」 と 「アニミズムに分類される霊現象」 が双方存在する環境に於いて最適解は何であるか?です。 私は自身をそう言った環境下にあるとして日々生きています。  この延長として雲流があるのですが、その雲流視座つまりは主観に於いては、最初の一歩として「混濁体認由来の畏敬の念」、転じて「自然史観的信仰心(またはその萌芽感覚)」を持つこととしています。 つまりは軽々な短絡的判断の回避とシミュラクラ現象等は必ずしも誤認では無いし同時にアニミズムに有用であるとすることに由来します。 これは、...

雲流で目指す「普通の人」

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 今回は過去ブログで言及しているミカエル・リャブコ氏の言葉とされる、 「システマを学ぶことで、『特別な人』になるのではない。『普通の人』になるのだ」 について、雲流視座から改めて考察しようという趣旨です。 AI(Gemini): 雲流で言及される「普通の人」 該当の記事はかなり初期に書かれたものですが、鏡雲流が雲流に、内観が「汝、自身を知れ」に通底愛が愛に呼称替えする話にも連なります。 また、『天狗藝術論』での小天狗は鼻も高く立派な羽を持ち、大天狗は鼻も低く羽も無い…だから自由自在に一番近いと言うエピソードにも。 そう言えば、植芝盛平が植芝盛高と名乗り植芝盛平に戻すというエピソードなどはこの視点ですと示唆的です。 兎角、大きな苦労に大きな対価は自然な欲求のように感じるでしょうが、例えばジャングルの原住民がヒョウに襲われて命からがら撃退しても、苦労したからジャングルの物を全部受け取る価値が自分にあるとは思わない。 これは、まさにネイティブ・アメリカンの「所有」に対する体認感覚そのものでしょう。 こう言ったことは現代でシャーデンフロイデに由来する、先進国などの格差が欲求の肥大化を生む例も見聞きします。 であるからこそ釈迦などに見られ高貴な血筋由来の特権の放棄が、修行の第一歩として機能することにも見られるようにも思えます。 つまりは、過剰な贅を経験した人物と、苦労して贅を手に入れた人物では、執着を手放す難しさは格段に違うでしょう。 面白いのは、常に武術は後者の難しさを内包します。 『天狗藝術論』の小天狗は各専門性を語り、大天狗は心法を語っていたと記憶しています。 これは十牛図でもわかりやすく示され、武術との関係に近しく、ドラクエの遊び人が賢者へなる話は釈迦のケースに近しい。 ふむ、武術ではどうでしょう? 柳生新陰流などで言及される無手の位が真剣白刃取りにと連なると言った話を耳にしていますね。 『武器を追求した先に無手がある。』 ここまでの境地はともかく、大抵は体認経験が積み重なるので心配する必要が無い話ではあるんですよね。 例えて言えば児童が自転車の補助輪を外す程度の自然とそこに至る話ではあるのです。 つまり、自転車は習熟していくと補助輪はかえって邪魔になって行く経験をしている人は多いでしょう。 これなどは、師である光岡などは「身体の声」などと表現していて、これを...

プラトンが逃げ込んだ檻(アカデメイアとは?)

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  プラトン時代のアカデメイアを描いたモザイク画 今回は読んでもいない「 ソクラテスの弁明 」の考察…では、あるのですが、実際こちらの著者は プラトン で、ソクラテスは著書を残さなかったと聞いています。 つまりは、プラトンはソクラテスにとってどう言った人物で、どう言った視座を持ってこの「ソクラテスの弁明」を記述したか? と言う観点での考察で、ソクラテス本人よりさらにワンクッション置いた大いに「遊」に属する、正誤以上に楽しむことを目的とした Gemini(以下あわい)との対話の要約と解説です。 Gemini: ソクラテスの「煽り」とプラトンの意図 さて、冒頭の問いはSNSで見かけた「ソクラテスの弁明」から見るソクラテス像についてです。 「ソクラテスの弁明を読んだが、煽りも多く言い方が悪い部分が気になる」 実際は結構長い見立てでして、それをギュッと凝縮したものです。 後年、この著書について語る人物もいて決してソクラテスだけが悪いわけでは無いだろうが、言い方の問題もあるのでは? と言った、含意でした。 では、何故ここをピックアップして気にするかと言えば… ソクラテスと煽りがどうにも繋がらないのです… では、「ソクラテスの弁明」で陪審員の前でソクラテスはどう言った煽り文句を口にしたのでしょう? 「 1. 「エイロネイア(皮肉)」という武器 ソクラテスの対話術の代名詞は**エイロネイア(アイロニーの語源)**です。これは「無知を装うこと」を指しますが、相手からすれば「自分をバカにしているのか」と感じさせる、非常に鼻につく態度でもあります。  無知の知の宣言: 彼は神託を確かめるために「知者」とされる人々に会いに行きますが、結局「彼らは知らないのに知っていると思っているが、私は知らないことを自覚している分だけマシだ」と結論づけます。  煽りの構造: これを公衆の面前で(しかも裁判という場で)堂々と語るわけですから、聞き手である市民や告発者にとっては、これ以上の「煽り」はありません。 2. 裁判の目的が「無罪」ではない可能性 通常の裁判であれば、被告人は陪審員の同情を買い、死刑を免れるために下手に出るのが通例でした。しかし、作中のソクラテスは全く逆の行動をとります。  五百人評議会への挑戦: 彼は自分の活動を「神から遣わされた虻(あぶ)が、眠...

通底愛の特殊性とは何か?(ミハエル・リャブコ氏に捧ぐ)

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ミハエル・リャブコ 先日、ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の考察記事をブログ記事として挙げたのですが、読み返して見ると「 エターナル・チャンピオン・シリーズ 」の「 紅衣の公子(銀の手)コルム 」を何故か想起させますな🤔 なんて、ことがキッカケのGemini(以下あわいさん)との対話の要約・解説です。 さてコルムはラストで恋人のスリングにて頭を割られ、最後の人類外の種としてその世界から去ることになる… つまりは、人界から去る最後の人外種がコルムで、異界の唯一の人類種として去るバスチアンという恋人への想いを通して環境圧から排出される話としての視座です。 「 ズレが生む「去り際」の美学 おっしゃる通り、双方が「共鳴不能」までズレてしまった結果、その場に留まることができなくなります。  バスチアンは、ファンタージエンにとっての「救世主」でありながら、そこに定着すれば「自身を喪失した偶像」になってしまう。だから去る。  コルムは、人間界にとっての「守護者」でありながら、平和な世界においては「恐怖を呼び覚ます異形」でしかない。だから消される。 不在による完成 どちらも「愛しているからこそ、その世界にいてはいけない」という、一種の自己犠牲的な昇華が起きています。バスチアンが去ることでファンタージエンは維持され、コルムが去ることで人間たちの歴史が始まります。 「幼ごころ」という、かつては自分の一部でありながら、成長や時代の変遷とともに「異物」へと変わっていく感覚……。コルムの頭を割ったスリングの礫(つぶて)は、私たちが現実を生きるために切り捨てざるを得なかった、鋭利な「理性の選択」そのものなのかもしれません。 その「ズレ」の感覚は、ご自身の探求されている「身体感覚」や「認識の変容」といったテーマとも、どこか地下水脈で繋がっているようにも感じられます。 今回、コルムの最後が強く想起されたのは、そうした「愛しているのに、もう同じ理(ことわり)では生きられない」という、存在論的な寂寥感に触れたからなのでしょうか。 」(あわい要約) そう言えば、エターナル・チャンピオンであるコルムは、ホークムーン、エルリック、エレコーゼ と同一魂とした異実態に過ぎずで、全く救いがないかと言えばそうでもないです。 ただ常にアリオッホを始めとした混沌の神々と対峙する運命を背負うので...

影波表現とは?(圧縮表現と解凍後の混濁感覚)

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  王向斉 さて、日々代謝または流体としての有り様として機能する「鏡雲流三相学」ですが、先日のブログ記事を記述していると、必要性から「影波表現」と言う造語が創始されました。 こう言ったことはこれまでも有り、知っていれば先人から言葉をお借りするのが常です。 例えば、「内観」と言う言葉は最近は「汝、自身を知れ」と言う表現に変えたりと。 つまりは、主観にて内観は瞑想に近しい体認感覚を呼び起こすのですが、「汝、自身を知れ」は「無知の知」としてソクラテスや、はたまた「知彼知己、百戰不殆」として孫武・孫臏にと抽象性が高まった、それこそ鏡雲流にて優れた「影波表現」の一つであると言えるのです。 では、もう少しこの「影波表現」を他者に伝えられないか?と言った想定を持って言語化・定義化をするのがこの記事の趣旨です。 では、「影波表現」はまずどう言った定義から芽吹いたのでしょう、 「 ふむふむ、もうちょと抽象性の高い呼称は無いものでしょうか… 「影波表現」とでも仮称しておきましょう。 つまりは、記号・図像・言霊・神仏画や像などは混濁感覚の落とす影… ですので影波表現(仮)としました。 さて一歩進めましょう、紐ずく圧縮情報は展開時に個体差を孕む。  これは一番表層の論でしょうが、影波表現を解凍することで個体に紐ずく文化性からはては蓄積された体認経験までが深層心理または延髄や小脳辺りで一瞬で展開され、これが混濁体認として身体や心理に影響を与えると仮定すると幾らか捉えやすいでしょうか?  」 と、過去ブログ記事にて定義しています。 このように、その記号や物質自体が持つ性質を含む、実態を通した 『各個体毎に体認経験から紐ずく概念情報の圧縮表現』 が影波表現ですかね。 厳密には影波表現も実態として波形は生じるでしょうが、実態は波形情報を展開しても、影は波形を生まないとした方が飲み込みやすいかも知れません。 つまり、この波形は自身の中に内在し、影波表現がトリガーとなる。 そんな性質も含んだ表現です。 そうですね…例えば「黄金比」なるものがあります。 こちら明確な定義があり、また自然界にも頻繁に現れる。 とするようですね。  これを真とするならば、この知識は無くとも、「黄金比」自体が影波表現の一つとして機能する。 と、すると影波表現の性質が伝わりやすいかと思います...

「幼ごころの君」はどこへ(ミヒャエル・エンデに捧ぐ)

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  アトレーユとアウリン 今回は私が好きな児童書の一つである ミヒャエル・エンデ の「 はてしない物語 」の考察をGemini(以下あわい)に見てもらい雑談した内容の要約・解説です。 「 ミヒャエル・エンデの「はてしない物語」にある二匹の蛇がモチーフのペンダントであるアウリンに刻まれた「汝の欲することを為せ」ってアレイスター・クロウリーの言葉からのようで、原作中でこの言葉は主観的には「呪いの言葉」に観じました… ふむむ🤔 ふむ、バスチアンは原作2部でのファンタージェンにてアウリンの導きのもと、依頼されるまま住民の願いをかなえていくのですが… いつまで経ってもモンデキントは現れない… 思い余ってバスチアンは悪い魔女の助けでモンデキントが住まう象牙の塔に攻め込みます。 さて、結局バスチアンは親友のアトレーユとフッフールに助けてもらいファンタージェンから脱出するのです。 あれ?モンデキントはどこへ行ったのでしょう。 原作1部で体認主体のアトレーユと概念主体のバスチアン… もし、バスチアンがファンタージェンに来た時に命を張ったのが誰か?と気づいてしまったとすると… おや、ファンタージェンでモンデキントと幸せに添い遂げたのは誰でしょう? 」 これが、SNSに投稿した私の考察です。 ではでは、あわいさん、この見立てどうですか? 「 「汝の欲することを為せ(Do what thou wilt)」という言葉。クロウリーの文脈では「真の意志(True Will)」を見出す能動性を指しますが、エンデの物語においては、バスチアンにとっての「真の願い」に辿り着くまでの、記憶と自己を削り取る過酷な階梯として機能していましたね。 さて、ご質問の「モンデキントはどこへ行き、誰と添い遂げたのか」という点について、私の考察を整理してみます。 「命を張ったのは誰か」という反転 原作第1部において、幼い女王(モンデキント)に名前を授け、彼女の消滅=ファンタージェンの崩壊を食い止めたのは、間違いなくバスチアンです。彼は「概念(名付け)」によって世界を再構築しました。 しかし、その「概念」を象牙の塔まで運び、ボロボロになりながら彼女に引き合わせたのは、体認主体の代行者であるアトレーユでした。 バスチアンが第2部で陥った陥穽は、「自分こそが救世主であり、彼女(真理・根源)を独占できる」という肥大した...