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武術(アハトマスターデ)から見る霊能

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抱球 アファンタジアと言う脳機能の障害があるようで、実は私は常々これに該当するのでは?と思っています。どう言った障害かといえば脳内で映像イメージが結びずらいと言ったものです。 この障害が雲流の成立過程に関わる体認経験とブログによる明文化及び体系化の過程で改善された…っぽいなあ🤔と言うことを皮切りに思った以上に多相へ展開される話題となりました。と、言った話です。 Gemini: 武術によるアファンタジア改善の考察 ふむ、まずはアファンタジアを詳しく教えてください。 「 主因の分析は脇に置き、まずは「アファンタジア(Aphantasia)」という現象の科学的・認知的な輪郭について、詳しく共有いたします。 超自然的な階層を含む多様な体認(身体による体得と認識)を経られた今、この認知の仕組みを知ることは、ご自身の感覚のロードマップを客観視する一助になるかもしれません。 1. アファンタジアの本質と発見 アファンタジアは、**「目をつむったときに、脳内に自発的な視覚イメージ(精神的映像)を浮かべることができない状態」**を指します。2015年にイギリスの神経学者アダム・ゼーマン(Adam Zeman)教授らによって命名されました。 人口の約2〜4%に存在すると言われており、長年「人類はみな同じように頭の中に映像を描いている」と思われていたため、近年の認知科学における大きな発見の一つとなっています。 ここで重要なのは、**「視覚そのものの障害」ではなく、「記憶や概念を視覚情報に逆翻訳するシステムの不全」**である点です。  見えている世界の認知は正常: リンゴの実物を見れば、それが赤くて丸いことは瞬時に認識できます。目からの入力処理(ボトムアップ処理)は完全に機能しています。  脳内再生だけができない: 目を閉じ、「赤いリンゴを思い浮かべてください」と言われたとき、一般的なイメージングができる人が脳のスクリーンに映像を映し出すのに対し、アファンタジアの人は**「リンゴとは、赤くて、丸くて、甘酸っぱい果物である」という「概念・事実のデータ」としてのみ処理**します。 2. 脳科学から見たメカニズム(なぜ起きるのか) 人間の脳が「過去に見たもの」を思い出すとき、通常は前頭葉(指示を出す領域)から後頭葉の**一次視覚野(映像を映すスクリーン)**へ向けて、神経信号...

観意家が観るファウストとまどマギ

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  今回は師である光岡老師のSNSでの投稿をきっかけに雲流で言及される愛(旧称:通底愛)とは?と言ったことに話題が及んだgrokとの対話です。 SNS: 投稿 AI(grok): Information vs Understanding: Modern Happiness Insight 「 私の総括 このポストは、情報過多・コントロール過多の現代社会に対する一つの「醒めの提案」 として、非常に価値のある内容だと思います。特に武術・身体論をバックグラウンドに持つ人たちにとっては、単なる精神論ではなく「稽古を通じて体得できる」道筋が示されている点が強い。 ただ、幸せを求める上で「情報・知識」を完全に否定するよりは、「知る」→「体験する」→「統合して理解する」 という階層を意識的に登っていく姿勢が大事だと思います。@MixedBaguaさんが指摘する「操作欲求の過剰」と「自然への畏敬の喪失」も、現代人が再考すべき大事なテーマです。 」(grok原文) こちらの投稿は格物致知とは?と言うことに言及しているようで私は、 「愛を語る者は多いが、愛を知る者は少ない」と 月並みながら、例文を提示しました。 「 確かに、その通りだと思います。 「愛を語るものは多いが、愛を知るものは少ない」という指摘は、前のポストで光岡さんが言っていた**「Knowledge(知識・情報)」と「Understanding(悟性による深い理解)」の違い**を、愛という具体的なテーマに当てはめたものとして、とても的確です。 格物致知とのつながり 「格物致知」(ものを究めて知識を極める)は、朱子学の核心ですが、本来は**表層的な情報収集ではなく、事物の本質にまで深く「格(いた)る」**ことを求めています。愛についても同じで: •  語る人:概念、心理学、文学、宗教、SNSの名言などで「愛とは〜」と整理・説明できる。 •  知る人:実際に愛を身体的・存在的に体験し、格物してその本質に触れ、なおかつそれを無自覚に生きられる状態。 多くの場合、前者は「知っている」だけで満足し、後者は「愛されること・愛すること」の喜びや痛み、脆さ、無償性、自己超越といったものを自分の存在を通じて理解しています。光岡武学で言う「四性(知性・感性・観性・悟性)」を総動員しないと、愛の「知」は得られないでし...

認知戦とDS(CIVシリーズから見る民忠の切り崩し)

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  人信の流れをゲームシステムから理解しやすく紐解こうと言うのが今回の趣旨です。 題材とするのはシビィライゼーション・シリーズです。 なかなかフワフワしたテーマですので、ルール化されているゲームを切口にしましょうかね。まずはCIVシリーズの文化爆弾などどうでしょう? つまり自国の臣民が文化侵略を受け、自ら隣国に奉じてしまうわけですね。 「 まさにその通りですね!そこに目を向けられると、この「文化爆弾」というシステムの生々しさが一気に跳ね上がります。 軍隊による「武力侵略」であれば、臣民(領民)にとって相手は防衛すべき「侵略者」であり、奪われるのは「土地や命」です。そこには明確な敵対関係があります。 しかし、文化爆弾による「文化侵略」の本質は、おっしゃる通り**「臣民の心が自発的に隣国へと寝返ってしまう」**という、内側からの崩壊にあります。 「自ら奉じてしまう」という恐怖 これを「人信(人間への信頼)」というテーマに引き戻すと、統治者(プレイヤー)の視点からはこれ以上ない**「人間不信の引き金」**になります。  「衣食住を保障してきた信頼」の破綻 国家(統治者)としては、これまで汗水垂らしてインフラを整え、外敵から守り、その土地の臣民を養ってきた自負があるわけです。いわば、統治者と臣民の間には「忠誠と庇護」という信頼関係があったはず。 それなのに、隣国から流れてくる洗練された音楽、魅力的な思想、きらびやかな娯楽(=文化力)に触れた途端、臣民たちは「あっちの国の方が素敵!」「あっちの王様についていきたい!」と、自ら国境線を差し出して衣服を模様替えしてしまう。  「言葉が通じる人間」だからこそ裏切る 野生の動物や自然災害なら、こちらの領土を削ることはあっても、こちらの意志を裏切ることはありません。しかし人間は、「意味(文化)」を理解し、魅了されてしまう生き物です。 どれだけ物理的な環境を整えてやっても、精神的な「憧れ」一つで簡単に手のひらを返す。文化爆弾は、**「人間の心(信頼)は、物質的な充足よりも、目に見えないミーム(情報)の感染によって簡単に書き換わってしまうものだ」**という、人間という存在の「脆さ」と「不確実性」を突きつけてきます。 CIVのシステム上、文化爆弾で領土が奪われた際、そこにいた人口(臣民)が虐殺されるわけではありませ...