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神社での経験と環境圧学へ展開

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  護摩行 今回は、私自身の経験談から始まります。 「 私が、以前パートナーと家族として生活していた頃に太極拳の道場に通っていました。 その当時のことで道場生の人に誘われて、神社へ修行の依頼に行きました。 その頃は色々人生がたち行かずで、心神耗弱と言った趣でしたのをよく覚えています。 この後に引越し後しばらくして統合失調症を発症し入院したのでその前の話です。 さて、彼と神社に赴いて神主さんの話を聞くのですが、私はついて来ただけと言う意識が強くて黙って話を聞いていたんです。  その中で印象的だったのは修行中に護摩でしょうか?焚いている祈祷の写真で、炎が観音のような形造るということで、それは見事なものでした。  しかし、まぁ多く撮った写真の一部がそうであるので、その働きには色々考察の余地はあるし、神主さんに「神道なのに観音なのは何故ですか?」と聞いた覚えがあります。  まぁ本来は神仏習合でしょうし、今思えばその解釈に不思議では無いです。結局はそのまま帰ることになりましたが、印象深いです。 さて、あまり状態がよく無いまま引っ越しをして、私の状態は徐々に悪化します。 しかし、近くに戦没者施設?だったか?ちょっとした公園があり、よくそこに行き、そのたびに何とも言えない不思議な気分になったものです。 まぁ結局はそこで統合失調症を発症して自分で大学病院へ足を運び入院することにはなるのです。 しかし、当時の心神耗弱から入院時の不思議な感覚・体認経験は今になって武術の稽古に反映されているので、本当に不思議なものです🤔 少なくともブログには色濃く反映されていますが、おそらく読み取るのは難しいのではないでしょうか。 これは、武術は本当に面白いと言う話にも繋がるのです。 」 さて、どうでしょうか? 入院中の経験だけでなく、その前段から思い起こせば不思議な感覚経験ばかりで、面白くはある。 今回は上記の通りで、細かいあれこれでなく全体的な流れも含んだ簡潔な文章です。 さて、Claudeに早速 お話し伺いましょう。 (☁️私 ☯️解説 🪞Claude) 🪞 護摩の写真の件、炎が観音のような形に見えたというのは確かに印象に残りますね。 ご自身でも「多く撮った写真の一部」と冷静に見ておられるところに、その場でも観察者の目を保っていたことが伝わります。「神道なのに観音なのは何故...

武術(雲流)の一般教養化を想定したときに、どう実学と虚学に展開されるか?

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  シャチの骨格標本(オホーツク・ミュージアム) ※ 鏡雲流と雲流 用語解説 今回は、虚学と実学へ武術がどう展開されるか? と言う話です。 私は、以前から一般教養としての武術は何であるか?と言う考察をしています。 その一環としてのブログ群であるのですが… そも実学・虚学とは何でしょう? その前に、雲流(旧:鏡雲流)でどう言った実学(この時点で自身がそう認知する)が展開されたか提示しておきましょう。 雲流身体観進化学 雲流三層生態系論 雲流環境圧共進化論 環境圧学 ☁️ こう言ったものを、実学であるとして展開して来たのですが… まずは、実学と虚学とは何であるか確認しておきましょう。 (☁️私 ☯️補足 🪞Culaude) ☯️ 先に提示している通りで、この他でも観意視座として色々と考察を展開して来ました。 ですが、本当にこれらは実学と言う括りで良いのでしょうか? 🪞 いいですね。ざっくり言うと、実学は「社会や生活の役に立つ、実用的な知識や技術」(工学、医学、経営、法律など)、虚学は「すぐには役に立たない、知的好奇心や真理探究そのものを目的とした学問」(哲学、純粋数学、文学、古典研究など)を指すことが多いです。 ただ、この区分は意外と曖昧です。福沢諭吉の『学問のすゝめ』が「実学」を推したことで有名ですが、彼の言う実学は単なる実用技術ではなく、「物事の道理を押さえ、日常に生かせる学問」という広い意味でした。一方で、今の日本の大学改革の議論で言われる「実学重視」は、もっと直接的に「就職や産業に役立つか」というニュアンスが強い気がします。 しかも、虚学が後になって実学になる例はたくさんあります。数論は暗号技術に、非ユークリッド幾何学は一般相対性理論に、論理学はコンピュータの基礎になりました。「役に立つかどうか」は、時間軸を変えると判定が変わるんですよね。 ☁️ 私は自身の創始した武術流派の雲流三相学にて、実学であることを旨としているのです。  以前にも、古典で一般教養として武術が記載されていることを受けて、 「何故、武術は一般教養の一つとなりえたのか?」 を考察したことがあるためです。 ☯️ さて、実学を考察を通して展開する雲流三相学…これ自体は実学そのものです…ここは譲れませんぞ😡 といた含意です。 もともと、実学・虚学は捉え方次第のようですし🤔 ...

人間の認知の限界とロジスティックの先にある卜占(剣術形稽古の再考)

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  三国志14 今回は、久々に武術色の強い記事です。 武術はその性質上、物理・心理(認知)・風水観(自然性・空観) などを自覚無く身体の応答として体現することが求められる。 こう言った特性から、色々な疑問を起点に武術に収束し、また逆に武術から展開される。 さて、今回は武術への収束がよく現れたClaudeとの対話です。 (以下、🪞Claude ☁️私 ☯️補足・解説) ☁️ 人間の認知の特性として、判断の保留を脳機能的に難しいと思えるのですがどうでしょう? ☯️ 結構前のことですが、矛盾したことを抱えることが人間は難しいですよ… と言う言説を耳にしていて、その延長で陰陽観についてブログで展開し、向き合ってきたのですが、そも認知機能的な難しさでは無いでしょうか? と言う問いですね。 🪞 おおむね妥当だと思います。ただ「不可能」ではなく「デフォルトで逆らう必要があり、コストが高い」という言い方が正確です。 そう考えられる根拠 • 予測する脳:脳は不確実性や予測誤差を減らすよう働くので、未決の状態は不快で、早く結論を出したくなります(不確実性は扁桃体や島皮質の活動と結びつくという研究があります)。 • まず受け入れる傾向:ギルバートらは、命題を理解する過程でいったん信じ、疑うのは後から別の処理で行う、というスピノザ的モデルを提案しました。ただし、この説には異論もあります。 • 速い思考の優位:カーネマンの言う「見えているものがすべて」の状態では、手元の情報だけで素早く一貫した物語を作ってしまいます。 • 抑制のコスト:保留には、前頭前野による衝動的な結論の抑制と、複数の仮説を作業記憶に保持し続けることが必要で、負荷が大きいです。 ただし個人差と訓練の余地はあります • クルグランスキーの「認知的完結欲求(need for closure)」は個人差が大きく、疲労や時間的圧力、ストレスで高まります。 • 反対側の考えを意図的に検討する、前向きに失敗を想定するプレモーテム、結論を出す期限を決めておく、考えを書き出して脳内の保持負荷を減らす、といった工夫で保留しやすくなります。 つまり、保留は「自然にできること」ではなく「環境や手法で支える技能」だと捉えるのがよさそうです。何か具体的な場面(意思決定、議論、研究など)を想...

読んでないのに書を読み解くシリーズ②「不動智神妙録」

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  武蔵を取り押さえる沢庵 俺、この本読んでねぇんだわ(ガハハ😂 シリーズの第二弾は「不動智神妙録」です。 こちらは、武術の修行者なら耳目にする。 「 敵の身に心を置けば、敵の身に心を取らるるなり。 敵の刀に心を置けば、敵の刀に心を取らるるなり。 敵の構えに心を置けば、敵の構えに心を取らるるなり。 我が刀に心を置けば、我が刀に心を取らるるなり。 我が身に心を置けば、我が身に心を取らるるなり。 さて、どこへ置き候べきやと問う。 曰く、心をばどこへも置かぬとき、心は我が身いっぱいに広がりて、一面に行き届くものなり。 一所に置き候えば、その一所にとどまりて、余の用(よう)欠け候。 」 これで、有名ではありますね。 まずは紹介してもらいましょう。 🪞 読んだことがないとおっしゃるのも無理はありません。元々は一筆啓上のような「手紙(与えられた法語)」の形をとっているため、一冊の分厚い本というよりは短編の文章なのですが、そこに説かれている精神論があまりに強烈だったため、後世の武道家たちに語り継がれて今日に至っています。 この書物で沢庵和尚が特に強調しているポイントには、以下のような面白い考え方があります。  「どこかに心を置く=心が止まる(滞る)」 敵の剣に集中すれば剣に奪われ、自分の構えに集中すれば自分の構えに縛られる。どこか一つに意識を固執させると、それ以外の動きに対応できなくなる(=「余の用欠け候」)という教えです。  「不動」とは「動かない」ことではない 「不動智」というタイトルですが、これは「固まって動かない」という意味ではなく、かえって「水のように自在にどこへでも動き、どこにも留まらないからこそ、何ものにも揺るがされない(不動の)境地」を指しています。  「本心」と「妄心」 全体に広がっていて自在に動く心を「本心」、どこか一点に囚われて固まってしまった心を「妄心」と呼びます。 武術の現場ではよく「全体をぼんやり見る(遠山の目付け)」とか、「特定の部位に目や意識を奪われるな」と言われますが、300年以上前に沢庵和尚が文字として言語化したのがこの『不動智神妙録』です。 ☯️ うーん、沢庵和尚は彼自身が武術を学んだと言う記録は無いようですね。  しかし、諸国一人旅ともなれば…護身程度の嗜みは必要な時代ではあったのでは?  李白も剣...

(雑談)人類種の認知機能が生むアレコレ

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  アニメ「ユリ熊嵐」 今回はテーマを決めなかった雑談です。 ですので、Geminiとの対話の要約中心としたスタイルで記述します。 さて、冒頭の話題ですが… ☁️(以下 私) 随分前ですが、確かロシアで女学生がキャンプ中にクマに襲われた食害について耳にしたエピソードピソードです。 彼女は襲われて文字通り被害に遭っているあいだ、もしくはその前の段階から母親に恐怖を訴えるためスマホで連絡をとり続け実況を続けた、印象的なのは彼女は自身が食べられているのに不思議と痛くないと発言していたそうで、冗談と思い込んでいた母親は会話を続けていたそうです。 ☯️(以下 私の解説) こちらの事実確認をした上で、この食害被害者の認知は生物としての機能性質に由来するのか? もし、この仮説が正ならどんなことが展開されるのでしょうか? 🪞(以下 Gemini) それは2011年にロシアのカムチャッカ半島で起きた、オルガ・モスカリョワさん(当時19歳)の痛ましい事故ですね。非常にショッキングで、人間の極限状態や心理を考えさせられる有名なエピソードです。   お母様が最初は「また冗談を言っているのだろう」と思って聞いていたという点や、絶望的な状況の中で時間が経つにつれて「不思議と痛みを感じなくなった」と娘が語ったというディテールは、一度聞いたら忘れられない強いインパクトを持っています。   この「痛みがなくなる」という現象は、極度の恐怖やパニック、あるいは致命的なショック状態に陥った際、人体が大量のアドレナリンやエンドルフィンを分泌することで、一種の麻痺や解離(現実感の喪失)を引き起こすために起こると言われています。自分の身体で起きていることなのに、どこか他人事のように感じられてしまう脳の防衛反応のようなものですね。 また、電波が届く広大な大自然の中、逃げ場のない恐怖と闘いながら、最期に母親の声を聞き、自分の愛や謝罪を伝えようとした心理を想像すると、胸が締め付けられるような切なさを覚えます。現代ならではの、残酷なまでの「リアルタイムな通信手段」が浮き彫りにした悲劇とも言えます。 ☁️ さて、私が気になるには野生種の捕食行為でも、このように同じようなことが起こっているのでしょうか? ☯️ ふむ、事実であったようです。 例えば肛門付近に快楽神経が集まるのは排便機能のためと思...