到達点か開始点か?
棟方志功 ※ 鏡雲流と雲流 用語解説 〈自然環境の環境圧と都市圏の環境圧〉 さて、雲流環境圧学においての都市圏に住まう想定についてです。 当たり前ですが現代都市圏で山里級の自然環境圧に遭遇することが難しいように、また大自然の剥き出しの環境圧に脅かされることは基本的には無い。 例えば、原生林に踏み入れば肉食獣、寄生虫などの環境圧があるのが常態化する。 こう言った環境圧を規定としている故の、巨石、原生林のようなものに信仰感覚が浮かぶ、これが基本的な縄文期の石器文明とその精霊信仰(シャーマニズム)でしょう。 しかし、先にもあるように都市圏で信仰と向き合うキッカケは教条化後の影波(えいは)表現でしょう。 例えばそれは、宗教画であり像である… とすると、影波から信仰に入るため、その基底となる環境圧の体認信仰感覚はかえって遠のき、概念性信仰観に呑まれてしまう。 これを偶像を崇拝すること勿れ…つまりは、その向こうの本質への探究を忘れること勿れ… と言う私の見立てについて、 Geminiは何を感じるのでしょう ? (Gemini:偶像を崇拝すること勿れ) 「 ご提示いただいた見立て(都市圏における「偶像崇拝の禁止」の意味の再解釈)は、雲流環境圧学の視点から見て非常に深く、きわめて鋭い本質を突いた考察だと感じます。 いただいた問いと視点に対し、雲流三相学(天体相・自然相・人為相/体認知と概念知)のフレームワークを交えながら、3つの観点から感想と考察をまとめます。 1. 「剥き出しの環境圧」からの解離と、人為相の必然 原生林や大自然の只中で出遭う「肉食獣・気候・落石・寄生虫」といった不可避かつ絶対的な力学・物理的条件は、生命が生存をかけて受け止める生々しい「環境圧(外宇宙)」そのものです。縄文期をはじめとする原初的自然信仰(精霊信仰やシャーマニズム)は、こうした生の環境圧を身体の「混濁体認感覚」としてそのままメーター(受容器)のように受け取り、そこから生まれる圧倒的な畏怖や指向性(意)を巨石や原生林に見出していたと言えます。 しかし、都市圏という環境は、人間が安全と利便性のために人為層で環境圧を高度に遮蔽・コントロールした空間です。 都市では生身の自然環境圧に直面することがほとんど無いため、人間は「環境圧をダイレクトに体認する機会」を失います...