Vtuberと言う仕事が持つ潜在的な危険性とは?(ホロメンに捧ぐ)
赤井はあと 今回は以前からファンであることを公言し、ブログでもちょくちょく取り上げるVtuberについての集大成的考察の第一弾と言った趣です。 入り口はVtuberの姿を中の人物が演じるとは?と言ったところが入り口でしたが、終わってみるとVtuberに代表されるアイドルとファン、巫女と信者という宗教と芸能、そしてこれがどう利用され、どの様な悲劇につながるかと言う先の考察に繋がる出発点でもあります。 Grok: Vtuberペルソナ:憑依・技巧・掌握の深化考察 まずは、Grok との共有認識を持つために幾つかブログの過去記事を紹介します。 過去ブログ: ペルソナが示唆するものとは?(赤井はあとさんに捧ぐ) 過去ブログ: 人類種の模倣能力の高さが示唆するもの?(人類種の得失の考察) ここで、言及される人類種の模倣能力の高さは直接 演技論に結びつく観点でしょう、ですがまず議題にしたいのは、古典でも良く題材にされる「仮面に憑依されコントロールされる」などで、憑依系演技者の持つ危険性、転じてVtuberにも言えるのではと? 日本では「刀に憑依される」なんて題材に近しい。 ここは、単相性と多相性の話にも連なります。 つまりは、Vtuberのキャラに押し込められる・囚われる危険性は、多相性を持つ人物が単相の檻に閉じ込められることに近しい。 この辺りをGrokは私との多少のズレを持ちながらも上手く纏めてくれています。 では、次にこちらの過去ブログ記事を紹介しましょう。 過去ブログ: 狼と犬の違いに現れる「絆」の有り様とそこから展開されるもの(古代古典の王の死) この観点として巫女と信徒、そしてVtuberとファンの関係性にも近く、この視点をさらに加味したわけです。 例えばこの問題の延長にあるコミニティーを巻き込む危険性についてにも、セイラム魔女裁判事件としてブログで言及しています。 この辺りは演じる人物に憑依するのは仮面だけで無くファンまたは信者も同様で、近しい効果を発揮してしまう。 さてさて、では現在の考察をセイラム魔女裁判を題材に一旦進めて見ましょうか。 ここでは、体認共鳴と概念共鳴の違いについての言及にもなっていますが、例えばこのような事象は多神教社会転じてシャーマニズム社会では対処が比較的容易く、一神教社会では難しい、ここは集団ヒステリーの解釈の幅の...