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勇魚から展開される日本固有文字史

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  ザトウクジラ SNSでこんな書き込みを見ました。 (X:ポスト) 「 日本神話のイザナギ・イザナミの名前の由来。 古代の日本語では「イザナ」と濁らず「イサナ」と読んでいた可能性が高い。 イザナギ→イサナ(勇魚)+キ(男) イザナミ→イサナ(勇魚)+ミ(女) イサナは万葉集でも使われるクジラを指す言葉です。 そしてこの二柱が最初に産んだエビス(ヒルコ)も、古くから漁師言葉でクジラを指します。 国生み神話が海洋民族の伝承をベースにしているなら、祖神がクジラであるのも自然。 」 ほぅ、聞いたことのも見たことも無い言説ですが、何故か惹かれますね… ちょっと、調べて見ましょう🤔 が、出発点の Geminiとの雑談の要約・解説 です。 (Gemini:クジラと勇魚) 「 提示されたSNSの投稿は、**国文学・歴史学における比較的新しい説や民間学説(海洋民信仰説)**と、**一般的な通説(国語学的な語源説)**を組み合わせた非常に興味深い内容です。 この言説の各要素について、学術的な背景と妥当性を検証・解説します。 各要素の検証 1. 「イザナ」は濁らず「イサナ」と読んでいたか?  妥当性:非常に高い  古代日本語(上代語)では、現在の「清音・濁音」の区別や表記法が異なっていました。『古事記』や『日本書紀』の万葉仮名表記を解釈する際、原音は「イサナキ(Isanaki)」「イサナミ(Isanami)」であったとする見方が国語学的に一般的です。 2. 「イサナ(勇魚)」=クジラ、「キ(男)」「ミ(女)」か?  妥当性:仮説としては存在するが、通説ではない  【通説の語源】 国語学や日本神話研究における最も有力な通説は、動詞**「誘う(いざなう=誘惑する、声を掛け合って一緒に行動する)」**を語幹とする説です。  イザナ(誘う)+ キ(男性を表す接尾辞)=「誘う男」  イザナ(誘う)+ ミ(女性を表す接尾辞)=「誘う女」  『古事記』の結婚の場面で、二柱が「あなにやし、えをとこを(ああ、素晴らしい男性だ)」「あなにやし、えをとめを(ああ、素晴らしい女性だ)」と互いに声を掛け合う(誘い合う)儀式を行う描写とも一致します。  【「勇魚(クジラ)」説の背景】 一方で、投稿の通り「イサナ=勇魚(クジラ...

何故?日本で神様を柱で数えるの?で始まるエトセトラ(ゲームが広げる教養)

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  TESシリーズ シェオゴラス 今回はVtuberの 七瀬すずな さんの配信で、「コレじゃ鬼殺隊で柱になれない」と言う発言を聞き、そう言えば…柱は日本で神様を数える時の表現ですよね… やはり、「 鬼滅の刃 」は日本が舞台であるようですので… 念のため、どう言った含意で使ってるんじゃろか? と言う、未読故の疑問を出発点とする Geminiとの雑談の要約・解説 です。 (Gemini:柱?) 「 神の数を「一柱(ひとはしら)」と数えるのは、古来の日本において**木や柱が「神の宿る場所(依り代)」**と考えられてきたことに由来します。 主な理由は以下の3点です。  大木・柱への信仰(依り代) 古くから神は常駐しておらず、普段は別の場所にいて儀式の際に降りてくると信じられていました。天に向かって立つ大木や柱は、神が降臨するための「目印」かつ「通り道(依り代)」とされたため、神そのものを柱で数えるようになりました。    神話における記述 『古事記』や『日本書紀』などの日本神話において、国造りの際にイザナギとイザナミが「天の御柱(あめのみはしら)」を立ててその周りを回る描写や、出雲大社の巨大な柱など、古代から神と柱は密接に描かれています。    世界や生活を「支える」象徴 建造物の構造を支える柱のように、目に見えない神々も「この世界や人の暮らしを支える大切な存在」であるという見立てや敬意が込められています。   木彫りの神像(御神体)を1本、2本と数えていた名残という説もあり、神様への敬意と日本の自然信仰が結びついた特有の数え方です。 」 おーそのものズバリで家屋などに見られる柱から来ているが有力なようです。 日本は木造建築文化であり、法隆寺五重塔にしても、また大黒柱と言った表現にしてもで、日本での柱の重要性はよく理解できる所です。 柱=巨木の人為的加工 ですので、自然そのもののアニミズムから一歩洗練化された宗教観故でしょう。 つまりは、その根に山岳原生林信仰があり、その延長での神社・宮大工と言う神の住まう場所と職人技術崇拝などが混在していそうです。 対話した時は、考察自体は未展開でしたので次の設問は、山岳原生林文明が由来でありそうであると、 では、大きく日本に影響を与えた中華では神格はどう数えるのでしょ...

観意視座での「イエスに香油を注ぐ女達」

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  イエスに香油を注ぐ女 さて、今回は私にとって知識の薄いキリスト教… つまりは新約聖書でのエピソードである「香油を注ぐ女」についてです。 さて、キリスト教徒では無い私が何故、聖書のエピソードについて印象があるかと言えば、様々なメディアでの散見する話は勿論、高校生の頃におそらく新約聖書を母校の高校の前で配っていたのを読んだり、ビジネスホテルに備え付けてある「新約・旧約聖書」に目を通したことがあるからです。 この話を出発点にした Geminiとの雑談 です。 さて、まずはGeminiに該当するエピソードの詳細を提示してもらいます。 (Gemini:二人の香油を注ぐ女) 「 聖書には女性がイエスの足(または頭)に香油を塗り、それを見た周囲の人間が批判し、イエスがそれを嗜めて女性を庇うエピソードが記されています。   福音書によって「誰が女性を批判したか」や「イエスがどう叱責したか」の焦点が異なり、大きく分けて2つの文脈で語られています。 1. 「罪深い女」の悔い改めと赦し(ルカによる福音書 7章) ファリサイ派のシモンという人物の家で食事をしていた際、街の「罪深い女」が涙でイエスの足を濡らし、髪で拭き、香油を塗った場面です。 周囲の批判: 家の主人シモンは心の中で「この人が預言者なら、触らせている女がどんな罪人か分かるはずだ」と冷やややかに見下しました。 イエスの叱責と教え: イエスはシモンの高慢さを見抜き、二人の負債者のたとえ話を出して諭しました。 「あなたがたはこの家で私に足を洗う水も出さず、挨拶の口づけもしなかったが、彼女は涙で足を洗い、足に口づけし、香油を塗ってくれた。多く赦された者は、多く愛するのだ」 イエスは冷淡な態度をとった主人シモンを戒め、女性の深い感謝と信仰を称賛してその罪を赦しました。 2. 香油の無駄遣いだと咎めた弟子への叱責(マタイ・マルコ・ヨハネによる福音書) イエスが十字架にかかる直前、ベタニア村で起きたエピソードです。(ヨハネ福音書では、女性の名はラザロの姉妹マリアとされています) 周囲(弟子たち・ユダ)の批判: 非常に高価な香油(労働者の1年分の給与に相当)を惜しげもなく注いだ女性を見て、弟子たち(特にイスカリオテのユダ)は「なぜこんな無駄遣いをするのか。売って貧しい人々に施せばよかったのに」と激しく怒り、女性を責め立て...