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カワイイ?

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昔々にきんさんぎんさんという双子の御長寿おばあちゃんが人気でよくテレビで取り上げられ、女性の多くが「かわいい、かわいい」ともてはやしていた。  それを見て確か伊集院光さんあたりが「ホントにカワイイとおもってんのか?」みたいに当時批判していた記憶があります。 そんな光景を見て当時思ったんですが男性の言う「かわいい」と女性の言う「かわいい」はかなり適用条件が違うように思えます。 まぁ男性はぶっちゃけ主軸に容姿が来ている方が多いようですが、女性は主軸がなくその条件が多岐にわたるように感じますね。 まぁこのへんは女性は男性より異性の容姿に寛容であったりするように思うのですが、これ母性が強く絡んでいるように思ってはいます。 つまりは女性の言うカワイイは言う本人も言語化出来ないことも多いんじゃないかと。 私は主柱のない包括的思考を持っているように(持つように)気をつけているのですが、これ女性の感覚に近いのかもなぁと思う時があったりします。 しかし、とは言え女性ほど容姿に対して幅を持てているかと言うと・・・ まぁやっぱ容姿の良い女性に惹かれるのは隠せなかったりしますw

(再掲)概念の檻と情報の檻

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私が良く言及する「情報の檻」と「概念の檻」についてChatGPTと雑談をコピペして掲載していたのですが、自身で要約しての再掲です。 このときはまだどちらの檻も曖昧模糊とした状態だったのでその整理を目的とした議論が当初の目的でした。 ChatGPT: 概念の檻と情報の檻 さて、このときは私は「情報の檻」と「概念の檻」という2つの概念を持っていたのですがその違いがうまく言語化出来ませんでした。しかし以前よりChatGPTとはこの言葉を使い大いに議論していたため明確化の相談をします。 それに対してChatGPTの答えは 情報の檻 :特定の情報や知識の選別された断片にアクセスし続けることで、他の視点や新たな知識に触れる機会を喪失する状態。主に外部から与えられる情報が影響する。 概念の檻 :自分の頭の中にある既存の思考の枠組みや信念、前提条件に縛られ、発想や理解が限られる状態。主に内面的な思考や認知に関わる。 と、上手い具合にいままでの私との会話から整理して回答を提示してくれます。 私はChatGPTの回答を受け一歩進めて整理します。要約すると・・・ 情報の檻 :自身の認識範囲から得られる情報空間。 例えばネット情報などは個人情報の集積により同じ指向性・思考性を持つ空間に囚われることになる。エコーチェンバーが発生する状況全般 概念の檻 :檻の中にいる人物がその情報の檻内の情報解釈により概念を形作る、そして似た情報解釈同士の個体がより強力な概念で纏められていった状況が形作る檻。つまりそれなりの情報の檻の中に複数の概念の檻が形作られる。 と、言ったところでしょうかね。 ここでかなり明確化されたので議論を一歩進めます。 1・ 太古の人類は自然環境やそこで形作られた生態系内で暮らしていたため、これも広義の情報の檻としてシュミレート 2・ 太古人類は命名を萌芽とする言語化を獲得し科学的思考を進める(道教的解釈の追加)  を提示し、ChatGPTと人類の進歩を議論します。すなわち原初の概念がアニミズムを形作り、群れの規模(国家規模)の巨大化に呼応して宗教を軸に概念が進化していく様子をシュミレートします。 ここでは、産業革命あたりから人間の文化共進化が人類の制御範疇を超え始め、現代に至っては危機的状況では?とChatGPTに投げかけてますね。 この議論の中でこの後のもう一つのテーマになる ...

(再掲)道教から見た科学

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さて、以前にChatGPTと道教と科学の関係性についての雑談をコピペして掲載していたのですが自身で要約しての再掲です。 ChatGPT: 科学と道教(命名と探求)に付いての雑談 老子の『道徳経』に以下のような記述があります。 道可道、非常道。 名可名、非常名。 無名天地之始; 有名萬物之母。 日本語意訳は 道(タオ)は語りうる道ではなく、普遍的な道ではない。 名前を付けうるものは、普遍的な名前ではない。 名のないものは天地の始まりであり、 名前のあるものは万物の母である。 今回はこの解釈を私なりにしてみましたよ!という話であります。 1・道を歩んだ者が道なきところに獣道のようなものを作る、つまりは道が無いところを歩むから道が出来るのであり、すでに先人が歩いた道は命名も終わり明確化(手順化)されている。 こうなってはもう本質的には道(タオ)から外れる。 2・科学的探求で言えば現象について命名を行い、その事により範囲が区画化され、そして要素が単純化し、ここで探求の始まりになる。 命名が母となり探求を産む。 3・命名は個人の解釈、感性により変化するので必ずしも同じ名前でなくて良いし、それは本質ではない。 例えば方言や言語に違いによるもの、道(みち)、道(タオ)、ROADなど。 さて、こういった感じでChatGPTと共通認識をもちます。 そして、話題はここから発展し・・・ 「この道教の解釈を踏まえると原初人類の言語は命名から始まったと言えそうです、最初は感情?生理反応?環境?いずれにしろ命名が母となり探求が産まれたのでは? そしてこの過程こそが原初の科学的思考の萌芽と呼べるのでは?」 私はこのような考察を披露します。 これにも、概ねの同意を得られたため、 『命名と探求の功罪』 と、話は進んでいきます。 『科学的探求が進むとはある事象を探求し、解明された事象に命名が行われ細分化し、また探求が行われるというプロセスを歩んだと認識しています。 これ自体は別段悪いこととも思えません。 これは「功」の部分です。 では「罪」はと言えば人類は細分化することに目を囚われ、既に身近にある本質(混元)から遠のいてしまったのではないでしょうか? 老子も「道は本当は身近にあるが見つけるのが困難になっている」というような指摘をしていたと記憶しています。』 といった質問定義をしています。 今になって、...