(再掲)道教から見た科学
さて、以前にChatGPTと道教と科学の関係性についての雑談をコピペして掲載していたのですが自身で要約しての再掲です。
ChatGPT:科学と道教(命名と探求)に付いての雑談
老子の『道徳経』に以下のような記述があります。
道可道、非常道。
名可名、非常名。
無名天地之始;
有名萬物之母。
日本語意訳は
道(タオ)は語りうる道ではなく、普遍的な道ではない。
名前を付けうるものは、普遍的な名前ではない。
名のないものは天地の始まりであり、
名前のあるものは万物の母である。
今回はこの解釈を私なりにしてみましたよ!という話であります。
1・道を歩んだ者が道なきところに獣道のようなものを作る、つまりは道が無いところを歩むから道が出来るのであり、すでに先人が歩いた道は命名も終わり明確化(手順化)されている。 こうなってはもう本質的には道(タオ)から外れる。
2・科学的探求で言えば現象について命名を行い、その事により範囲が区画化され、そして要素が単純化し、ここで探求の始まりになる。 命名が母となり探求を産む。
3・命名は個人の解釈、感性により変化するので必ずしも同じ名前でなくて良いし、それは本質ではない。 例えば方言や言語に違いによるもの、道(みち)、道(タオ)、ROADなど。
さて、こういった感じでChatGPTと共通認識をもちます。
そして、話題はここから発展し・・・
「この道教の解釈を踏まえると原初人類の言語は命名から始まったと言えそうです、最初は感情?生理反応?環境?いずれにしろ命名が母となり探求が産まれたのでは? そしてこの過程こそが原初の科学的思考の萌芽と呼べるのでは?」
私はこのような考察を披露します。
これにも、概ねの同意を得られたため、
『命名と探求の功罪』
と、話は進んでいきます。
『科学的探求が進むとはある事象を探求し、解明された事象に命名が行われ細分化し、また探求が行われるというプロセスを歩んだと認識しています。 これ自体は別段悪いこととも思えません。 これは「功」の部分です。 では「罪」はと言えば人類は細分化することに目を囚われ、既に身近にある本質(混元)から遠のいてしまったのではないでしょうか? 老子も「道は本当は身近にあるが見つけるのが困難になっている」というような指摘をしていたと記憶しています。』
といった質問定義をしています。
今になって、この議論を見返してみると ブログ:『混元八卦』に込めた想い に通ずる最初の一歩に思えて面白いです。
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