『混元八卦』の込めた想い
混元→太極→四象→八卦と例えばこれを人の性質のタイプ別分類と分けていくことになぞらえれば、例えば陰には陽の欠点がよく見えて、陽では陰の欠点がよく見えます。
しかし、まぁ四象として陽陽、陽陰、陰陽、陰陰と分けていけば前述と同じように自身と別タイプの欠点がよく見えます。 しかしまぁ当たり前ですが太極に視座があれば、陽の人間は陽陽、陽陰と双方の利点欠点が見えつなぐことが出来て、 陰に対する陰陽、陰陰も同様です。
これは同じように八卦に行けば陽陽陽、陽陽陰、陽陰陽、陽陰陰そして陰陽陽、陰陽陰、陰陰陽、陰陰陰のように同様のことが言えます。
つまり、視座が一つ混元方向に近づくと分岐先の性質が見えてきます。 これはまぁ抽象度という最近の言葉でも置き換えられる話のように思いますのでわりと理解しやすい話かと、そして私のHNの「混元八卦」にはこういった意味や想いを含んでいて、混元という視座と八卦という視座の違いをよくよく意識したいと思っています。
もちろん私が修練する「ハワイアン八卦掌」から始まっていますが現在では前述のような私の武術的視点から混元寄りの視座にシフトしているという意味(願い)が強くなっています。
さて、面倒なのは例えば混元に視座があっても陰の人、陽の人にはそれが認識できないので中途半端に見えたり、双方におべっかを使うコウモリ野郎のような評価を混元寄りの視座の人は受けたりするようです。
また面倒なことに元々混元寄りの視座を持って子供時代を過ごせば当然イジメの対象にもなりやすくなるように思え、イジメを受ける側もその理由まではわからず自身が劣っているためだと誤認する例もあるのではないかと思えます。
もちろんイジメを含めた攻撃の対象になるのは様々な要因があるでしょうからこれはほんの一例に過ぎません。
で、このようなことは人によっては「マトリックス」と呼んだり、私は「情報の檻、概念の檻」と呼んだりしていると認識しています。 多くの人はなかなか自身のいる視座から外れることが難しようで、この辺の打破として私は武術を挙げたりしていますね。
今回は性格分類を例にしていますが、多くのことに見られる現象に思え、何についても研究というものが進めば分類は細分化され、そして視座は細かく固定されていきフラクタル構造の檻に捕らわれていくことになります。
私自身について言えば科学の進歩には倫理的疑問を持ちつつ肯定的な立場を持っていますが、進歩と認識しているものが進めば進むほど自縄自縛になる現象と表裏であることは自覚しておいたほうが良いでしょう。
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