『普通の人』でいることの困難さ
「システマを学ぶことで、『特別な人』になるのではない。『普通の人』になるのだ」byミカエル・リャブコ
この言葉を初めて目にした時に私は深く感じ入ったのですが、まぁ私が以前から言及している通り前後のわからないワンセンテンスでは氏の真意までは図り知れず、またこれがたとえそばにいた人であっても氏の言葉が意味する深いところまでは理解するのは難しいであろうと思っています。 しかも私はシステマについては数度体験した程度ですので尚更です。
ですので、今回言及するのは氏のこの言葉で私からどんな思いが引き出されたかという話をしようと思います。
この言葉を初めて目にした時期は 某古武術道場に通っていた時期で、そこでホトホト人間性と技術は関係ねーなと思い知らされて、ここまで人間がゲスになれるのかと絶望を感じていた時期と重なります。 その時期に例えば @0054_yokohama さんのツイートをたまたま見かけて救われたりするのですが、今回言及した ミカエル・リャブコ氏 の件のツイートも大いに救いになったものの一つです。
そこの道場では、色々なことで苦しめられたのですがそこについて言及するのは過ぎ去ったことではありますので、今になってはどうでも良いのです。
そこで、当時はボンヤリした「選民意識」について思い悩むことが多く、その道場で感じた「私達は特別なグループ」感は非常に不快ではありました。 今となっては、こういった人間が評価されてしまうのは「武術の危険性を理解していない牧歌的感覚」とも思えたりしていますので、日本で武術が戦後どういった経緯を辿ってきたかという浅学ではありますが私のザックリした流れの認識下では、彼らグループが思い上がった感覚を持ってしまうのは、まぁしゃーななしなのか? とも思えます。
そんな時期のツイッターで流れてきた リャブコ氏の言葉は「あー本当に地獄のような状況を生き抜いてきた人は『普通の人』でいることの困難さを良く知ってらっしゃるのだろうな」と心底感動したのをよく覚えています。
こちらでも、私は少し言及していますが、普通でない状況で生き抜いた人間はそこにどうしても後遺症は残ってしまうようで、例えば戦場の兵士であれば 平和になった後の祖国に帰ってから苦しみが始まったりすることをよく見聞きします。
一方私は 統合失調症 という体認経験を持っていますので、別角度からではありますが 『普通の人』でいることの困難さを良く知っていると自負しています。
ですので、こういった言葉をミカエル・リャブコ氏のような方が口にすることが(私が正しく氏の思いを認識しているかはともかく)本当に凄いことだと思えるのです。
『普通の人』でいることの困難さを知る人は『普通でない状況』を経験しているからこそだと思えるという話でした。
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