私は何者か?
先日、Xでフォローさせていただいたある流派の武術家の方にDMを頂きました。そこにはデジタル名刺が添えられておりまして、まぁ一目で武術家としてはどう言った方なのかわかるような素晴らしいものでした。
よく、自分探しじゃないですが「自分は何者か?」と言った問いを立て苦しむ話を耳にするのですが、そも私はそう言ったことが気になった覚えがないのです。 しかし、同人の方などと話すことになれば自身がどう言った流派であるとか、どう言ったテーマであることを話すことはママあります。そう言ったことが今回のテーマです。
まず私は武術家?と言えるかもしれないけれども武術研究家ではないなと、私は道教家?と言えるかもしれませんが仙術家ではないなと、じゃぁ全く研究しないのかと言えばしますし、仙術は本当に全く関係ないかと言えば道教を通して武術を行えば自然と仙術の萌芽になってしまうと最近感じます。
ただ、それぞれをピックアップして専門集中化したい気持ちが今のところないだけです。 私の道教の解釈で「命名・名称」ついて明記しています、これはザックリ言えば名称それ自体より現象のほうが大事ですよ(ブログ:道教から見た科学)と言ったところです。
しかしまぁ人間は大抵言語コミニケーションが主体でしょうから言語は使う必要がある訳です。 これはとりも直さず先人からお借りすることになります。 例えば以前は「内観」という単語で行為を説明していましたが、これからは「自灯明」お借りしようと思っています。
これは自身の有り様の変化・進化が起こることによって自身の行為・状態に於いてしっくりくる名称・定義も同様に変化していくからです。
が、これはまぁ私の道教の解釈を突き詰めると森羅万象(クソデカ主語)からいつ何をお借りすることになるか分からんため、どこでもよく耳にする常に感謝の気持ちを、であるとか常に祈りの心をと言ったことの論拠にも繋がるような話となります。
こう言ったことは武術の稽古にも表れていて基本的に私が0ベースからオリジナルとして生み出したものは何一つ無く、仮に他者からそう見えるものがあったとしても、これとこれを組み合わせただけと大抵は明確にできますし、組み合わせ元はそちらの専門の方が詳しいでしょう。
実際、私の道教観を軸とすると自身は何者であるかの定義(命名)はあまり気にならず、その有り様(現象)が重要で、ラベル(命名)はその場状況に合わせ身の丈にあった相応しいものであれば問題ない❣️ という結論になる話でした。
追記として私はゲーマーだぞとは強く主張していきたいです😭
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