包括的思考の萌芽とは?(アキ・ローゼンタールさんに捧ぐ)

先日、 アキ・ローゼンタール さんの七周年生誕ライブがありまして、私の好きな他のVtuberさん達と同様に素晴らしいものであったのですが、その生誕ライブの振り返り配信でどういった想いを込め演出に反映させたかと丁寧に解説してらっしゃいました。 まぁ私ははっきり言ってエンターテイメントには疎く一視聴者・一ファンの立場からしか普段見れていないのですが、そういった世界の一端を覗かせてもらったと思えて非常に興味深かったです。 さて、今回もざっくりとした切り口を設定してアキ・ローゼンタールさんから覗くエンターテイメントと、私にとって比較的馴染み深い武術について比較しつつ考察してみようというものです。 さて、浅学ながら私が古の武術家の逸話などを耳目にするのは、極端な求道的精神が魅力になるような印象です。 この辺りは東洋の武術は道教・儒教・仏教などの影響を色濃く受けている印象ですので、こういった価値観と合致する人物を評価する傾向があるのかも知れません。 その極端な例として私等が浮かぶのは 真里谷円四郎 が挙げられます。 「 生まれついたままの純粋な赤子の心でもって種々の分別を離れ、外面に捉われることなく、ただ刀を引き上げて自然の感ずるところ、落ちるべきところへ刀を落とすだけ 」 円四郎が弟子に良く語っていた言葉とされているようですが、私等は「そりゃあんた、十全に変化を学んだ人間が至る境地でしょうよ、無茶言いなさるY」ってな所感ではあります。 実際、彼がどういった指導をしていたかは通っていた道場での雑談でしか聞いていないので、詳しい人からは違った話が聞けるかも知れませんが、私が聞いているのは彼のもとでは実力のある弟子は育たなかったとは聞いていて、「そりゃなぁ・・・」と。 ただ、現代に限らずでしょうが一般に武術家の好む指向性として 「究極の一 」であるとか「究極の本質」みたいな所謂 達人的逸話が好きでしょうから、こういった話は魅力的ではあります。 さて、一方でエンターテイメント側で極端な例として挙げられる人物となると、私は マイケル・ジャクソン かなぁなんて思ったりはします。 前述の通りで私はこちらの方面は疎いのでこの辺りは異論を持つ方は多そうですが、ブログの方針として「私の観覚」が基準ですから悪しからずいったところではあります。 この2つの極端な例を陰陽八卦図で当ては...