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2月, 2025の投稿を表示しています

包括的思考の萌芽とは?(アキ・ローゼンタールさんに捧ぐ)

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  先日、 アキ・ローゼンタール さんの七周年生誕ライブがありまして、私の好きな他のVtuberさん達と同様に素晴らしいものであったのですが、その生誕ライブの振り返り配信でどういった想いを込め演出に反映させたかと丁寧に解説してらっしゃいました。 まぁ私ははっきり言ってエンターテイメントには疎く一視聴者・一ファンの立場からしか普段見れていないのですが、そういった世界の一端を覗かせてもらったと思えて非常に興味深かったです。 さて、今回もざっくりとした切り口を設定してアキ・ローゼンタールさんから覗くエンターテイメントと、私にとって比較的馴染み深い武術について比較しつつ考察してみようというものです。 さて、浅学ながら私が古の武術家の逸話などを耳目にするのは、極端な求道的精神が魅力になるような印象です。 この辺りは東洋の武術は道教・儒教・仏教などの影響を色濃く受けている印象ですので、こういった価値観と合致する人物を評価する傾向があるのかも知れません。 その極端な例として私等が浮かぶのは 真里谷円四郎 が挙げられます。 「 生まれついたままの純粋な赤子の心でもって種々の分別を離れ、外面に捉われることなく、ただ刀を引き上げて自然の感ずるところ、落ちるべきところへ刀を落とすだけ 」 円四郎が弟子に良く語っていた言葉とされているようですが、私等は「そりゃあんた、十全に変化を学んだ人間が至る境地でしょうよ、無茶言いなさるY」ってな所感ではあります。 実際、彼がどういった指導をしていたかは通っていた道場での雑談でしか聞いていないので、詳しい人からは違った話が聞けるかも知れませんが、私が聞いているのは彼のもとでは実力のある弟子は育たなかったとは聞いていて、「そりゃなぁ・・・」と。 ただ、現代に限らずでしょうが一般に武術家の好む指向性として 「究極の一 」であるとか「究極の本質」みたいな所謂 達人的逸話が好きでしょうから、こういった話は魅力的ではあります。 さて、一方でエンターテイメント側で極端な例として挙げられる人物となると、私は マイケル・ジャクソン かなぁなんて思ったりはします。 前述の通りで私はこちらの方面は疎いのでこの辺りは異論を持つ方は多そうですが、ブログの方針として「私の観覚」が基準ですから悪しからずいったところではあります。 この2つの極端な例を陰陽八卦図で当ては...

陰陽の天秤の支柱とは?

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  今回は私が『陰陽』について言及する時にどういった感覚を持っているかというところの解説です。 実際のところ私の陰陽観は道教が出発点ではなく、まずは武術での体認ありきですのでザックリ言って光岡武学で言及するところの左右観を天秤皿としてその支柱を正中線(重力に対する垂線)としたものとしています。 概念より体認を優先するのが私の武術観ですので、これに乖離があるはずもなくと言った所です。 私の体認上の陰陽の天秤は正中線が支柱ですのでこれ自体が動的です。 正中線は別に身体の中心線ではなく、どこに重力対する垂線を設定するか(されるか)が問題ですので体認を優先すればそりゃこうなるわけです。 さて、体認ありきで概念が構築されるため例えば概念上の問題(例えば仮説・仮定)もこの観覚を持って行われることになります。 当たり前ですがそうでなきゃ概念に身体が引っ張られることになり元も子もなくなり、どんどん概念の檻に囚われ自縄自縛になっていくからです。 まぁ例えばですね 教育(陽) <> 洗脳(陰)とした同一線上にあるとしたときに陰陽それ自体も重要ですが、その支柱は何か? というのもとても重要な問題であります。 まぁ私はこれを体認経験上の現段階では 心法 としていますので、ことさら武術においても 人間性を重要視したりしています。 ちょっと分かりづらいかもしれないので、具体例を提示してみます。   毎度、好きなVtuberを例に挙げて恐縮ですが、私はホロライブ箱推しでホロメン同士の絡みをとても微笑ましく見ていたりします。 他の人とコラボしている光景でよく見るのが 誰かが誰かの姉で妹だ! とか こいつは俺の女だ! とか、まぁ私からは微笑ましいプロレス的なマウントの取り合いを良く見かけます。 しかし、これを安心して私が視聴できるのは私の天秤の支柱の位置が動的だからとも言えます。  例えば儒教などに対峙する時に動的な天秤の支柱の感覚があれば、これを絶対だとして強烈にヒエラルキーを設定する行為(洗脳)の愚かしさや、ベースとしての道徳観(教育)としては良い面もあるといった見方が可能なわけです。 つまり、例えばホロメンが強烈な洗脳下にいると仮定すると、前述の微笑ましいマウント合戦も陰惨な地獄絵図に見える・・・ といった支柱の位置もあると言えます。 こういったことは、この光景を見...

『普通の人』でいることの困難さ

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「システマを学ぶことで、『特別な人』になるのではない。『普通の人』になるのだ」byミカエル・リャブコ  この言葉を初めて目にした時に私は深く感じ入ったのですが、まぁ私が以前から言及している通り前後のわからないワンセンテンスでは氏の真意までは図り知れず、またこれがたとえそばにいた人であっても氏の言葉が意味する深いところまでは理解するのは難しいであろうと思っています。 しかも私はシステマについては数度体験した程度ですので尚更です。 ですので、今回言及するのは氏のこの言葉で私からどんな思いが引き出されたかという話をしようと思います。  この言葉を初めて目にした時期は 某古武術道場に通っていた時期で、そこでホトホト人間性と技術は関係ねーなと思い知らされて、ここまで人間がゲスになれるのかと絶望を感じていた時期と重なります。 その時期に例えば  @0054_yokohama  さんのツイートをたまたま見かけて救われたりするのですが、今回言及した ミカエル・リャブコ氏 の件のツイートも大いに救いになったものの一つです。 そこの道場では、色々なことで苦しめられたのですがそこについて言及するのは過ぎ去ったことではありますので、今になってはどうでも良いのです。 そこで、当時はボンヤリした「 選民意識 」について思い悩むことが多く、その道場で感じた「私達は特別なグループ」感は非常に不快ではありました。 今となっては、こういった人間が評価されてしまうのは「武術の危険性を理解していない牧歌的感覚」とも思えたりしていますので、日本で武術が戦後どういった経緯を辿ってきたかという浅学ではありますが私のザックリした流れの認識下では、彼らグループが思い上がった感覚を持ってしまうのは、まぁしゃーななしなのか?  とも思えます。 そんな時期のツイッターで流れてきた リャブコ氏の言葉は「あー本当に地獄のような状況を生き抜いてきた人は『普通の人』でいることの困難さを良く知ってらっしゃるのだろうな」と心底感動したのをよく覚えています。 ブログ: 『勇者たちの戦場』を視聴しました。 こちらでも、私は少し言及していますが、普通でない状況で生き抜いた人間はそこにどうしても後遺症は残ってしまうようで、例えば戦場の兵士であれば 平和になった後の祖国に帰ってから苦しみが始まっ...