陰陽の天秤の支柱とは?
今回は私が『陰陽』について言及する時にどういった感覚を持っているかというところの解説です。 実際のところ私の陰陽観は道教が出発点ではなく、まずは武術での体認ありきですのでザックリ言って光岡武学で言及するところの左右観を天秤皿としてその支柱を正中線(重力に対する垂線)としたものとしています。 概念より体認を優先するのが私の武術観ですので、これに乖離があるはずもなくと言った所です。
私の体認上の陰陽の天秤は正中線が支柱ですのでこれ自体が動的です。 正中線は別に身体の中心線ではなく、どこに重力対する垂線を設定するか(されるか)が問題ですので体認を優先すればそりゃこうなるわけです。
さて、体認ありきで概念が構築されるため例えば概念上の問題(例えば仮説・仮定)もこの観覚を持って行われることになります。 当たり前ですがそうでなきゃ概念に身体が引っ張られることになり元も子もなくなり、どんどん概念の檻に囚われ自縄自縛になっていくからです。
まぁ例えばですね 教育(陽) <> 洗脳(陰)とした同一線上にあるとしたときに陰陽それ自体も重要ですが、その支柱は何か? というのもとても重要な問題であります。 まぁ私はこれを体認経験上の現段階では 心法 としていますので、ことさら武術においても 人間性を重要視したりしています。
ちょっと分かりづらいかもしれないので、具体例を提示してみます。
毎度、好きなVtuberを例に挙げて恐縮ですが、私はホロライブ箱推しでホロメン同士の絡みをとても微笑ましく見ていたりします。 他の人とコラボしている光景でよく見るのが 誰かが誰かの姉で妹だ! とか こいつは俺の女だ! とか、まぁ私からは微笑ましいプロレス的なマウントの取り合いを良く見かけます。
しかし、これを安心して私が視聴できるのは私の天秤の支柱の位置が動的だからとも言えます。
例えば儒教などに対峙する時に動的な天秤の支柱の感覚があれば、これを絶対だとして強烈にヒエラルキーを設定する行為(洗脳)の愚かしさや、ベースとしての道徳観(教育)としては良い面もあるといった見方が可能なわけです。
つまり、例えばホロメンが強烈な洗脳下にいると仮定すると、前述の微笑ましいマウント合戦も陰惨な地獄絵図に見える・・・ といった支柱の位置もあると言えます。
こういったことは、この光景を見るファンである第三者が動的な支柱を持っていないことから発生するトラブルにも繋がるように思えます。
次に武術的な例を
私が学んだ剣術では構えが五行と対応していると学びました、実際に私は修練しませんでしたが形の中には 相克で負けとなる側が気合の発声?を持って押し返すといった形を見せてもらったことがあります。 これも、まぁ発声をすることによる心法的な解釈も可能ですが、例えば 気合・気迫の発声(陽)<> 恫喝(陰) とすれば、まぁ前述のごとくで良い面悪い面が浮き彫りになります。 私は「恫喝すれば言う事を聞く」のような主張は「拳銃突きつければ言う事を聞く」並のしょうもない発言に感じるのですが、しかし武術的に見ればそれは理にかなった行為とも言えるわけです。
結局はこういった技術とも道具とも置き換えられることをどう使用するかは心法に関わるため、少なくとも私自身は武術において人間性は最重要項目になるとしています。
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