概念の檻から出る?

 


概念の檻から出ても別の概念の檻に移動するだけなのは身体性を基準にして潜らないからそりゃ当たり前なんだけども、結果的にそこで対面するであろう孤独はこれも当たり前だが埋まる類のものではない。 常に自身が本当に檻から出ているかという問いは残るけども・・・


はじめて命名以前の根元世界を体認したときの静けさはなかなか言葉で伝えることが難しい。


こういったことで気をつけたいのは、さらに自身をみつめ稽古をすることで、「あら、まぁ、以前の自分は浅はかでした」なんてこともザラにあります。 先達たちはどこまで何を経験したのだろうと・・・


だからって記述することを恐れるのはもったいないと思います。 拙くても現在位置の記録は経験上とても重要なことと感じます。

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