猿の手 と 夢の実現


猿の手」(さるのて、原題: The Monkey's Paw)は、イギリス小説家W・W・ジェイコブズによる短編ホラー小説。 (Wikipedia)

ということで、西尾維新の「化物語」でも取り上げられている有名な短編小説です。

大雑把に要約すると「猿の手のミイラ」に願掛けするとネジ曲がった解釈で実現されてしまうというストーリーですが、さて人の持つ「夢の実現」の性質について少し考察してみましょう。

では、思考実験として「日本の平和」でも願ってみましょうか。もちろん単純な思考実験ですので細かいディティールは言及しません。

    1・短期間に犯罪撲滅は難しいのでメディアコントロールで報道を絞り大多数に「日本は平和である」という認識を共有させる。

    2・短期間での犯罪撲滅は難しいのでこの対処を強化する、例えば監視システムを強化するなど。「日本は平和への努力をしている」という認識を共有させる。

他にもいくつもパターンはあるかもしれませんが、今回はこの2つを題材にしてみましょう。さて、無邪気に「日本の平和」を願った人物はどちらの選択をイメージしたのでしょうか?大抵は宗教的または哲学的な指向性を持ってどこにも歪みの発生しない美しく純粋な抽象度の高い『平和』を願ったのかもしれません。もちろん、私はそれについて何も問題があるとは思えません。

さて、ではパターン1とパターン2は願主のイメージする「平和」だったのでしょうか?

まぁ願主はどちらでも満足したのかもしれませんしそうでないかもしれません、しかしどうでしょう・・・これを実現するためには当然多くの人間が関与することになります。 そして、今回の双方のパターンで必ず歪みが発生し激しく抵抗する人々が発生することが予想されます。

しかし、どうでしょう? まぁそれも自然なこととも思えます、だれもが満足する近代社会には私等は一抹の不安を覚えたりします。


『では、願主を苦しめるとしたら、それは何が願主を苦しめるのでしょう?』 


それは、私は「願った責任」を追求されたときにその苦しみは始まると思えます。誰かに「あなたが願ったからこんな結果になった」と糾弾されたときに願主は何を思うのでしょう?


さて話は変わりミヒャエル・エンデの「はてしない物語」の2部でバスチアンはファンタージェンの多くの住人の願いを叶えたことが因果となり住人たちに恨まれるようになります。彼を最終的に救うのは友人であるアトレーユとフッフールで、彼らがその手を差し伸べます。

しかし作中でバスチアンのした行為は概ね善意からに思えます、ではどこに罪があったのでしょうか? そしてファンタージェンの住人にとってバスチアンは「猿の手」そのものであったのでしょうか?


さてさてさて、この構造を現実社会に当てはめたときに「猿の手」と「願主」はどこにいるのでしょう? 「猿の手」は政治家?革命家?活動家?起業家?etc・・・ では「願主」は一般の人々? では、それを構造的に取り持つのは? よく言う諜報機関?反社会勢力?メディア?ここでも活動家?etc・・・


この辺に社会構造において『神輿』となる存在とそれに『願う人々』、そしてそれを『構造的につなぎ実現させる人々』と雑把に3種に分けられるように思えます。 この単純構造は宗教にも政治にもギルド的組織にも見られる極ありふれた構造のようにも思えます。


さてさて、次に宮沢賢治の「なめとこ山の熊」です。こんな行があります。

『いくら物価の安いときだって熊の毛皮二枚で二円はあんまり安いとたれでも思う。実に安いしあんまり安いことは小十郎でも知っている。けれどもどうして小十郎はそんな町の荒物屋なんかへでなしにほかの人へどしどし売れないか。それはなぜか大ていの人にはわからない。けれども日本ではきつねけんというものもあって狐は猟師に負け猟師は旦那に負けるときまっている。ここでは熊は小十郎にやられ小十郎が旦那にやられる。旦那は町のみんなの中にいるからなかなか熊に食われない。けれどもこんないやなずるいやつらは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。』

ちょいと希望的観測がすぎるようで「こんないやなずるいやつら」は未だ大勢いるようですねw


と、言う話でした。🤭

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