情報を信じる・身体を信じる
情報を信じることは他者を信頼すること、身体を信じることは自身を信頼すること。
これは以前に私がXで投稿した言葉ですが、これにはそれなりの考察を持て一言に纏めた言葉です。 実際はここで記述するものよりだいぶ雑多な思考から生まれたものではありますが、少し整理ができたのでXに投稿しました。 これについてこのブログでも紹介します。
思考実験として曲がったスプーンが転がっているとする
1・手で
2・足で
3・マジックで
4・道具で
5・PKで
で可能であると仮定した時に曲がった状態からの判断は可能か?
私は出来ないと考えますが、ここで提示したい問題はそもそも論としてスプーンなんぞどう曲げようが結果があればいいと考えれば思考する必要はないわけです。 しかし、まぁ何かしらを学びたいと考える時にどう曲げたかは技術取得の問題として大変重要となります。
ここで例えば複数のスプーンをどう曲げたか見破れればその技術を伝授しようと言われた時に、ことこの例題に限って言えばわかるわけがないということです。 しかも、複数の方法を混ぜることにより選択の失敗をすれば出題者はイチャモンつけ放題となります。
まぁ私はブログなどで波形情報からシャマーニズムについて言及していますが、まぁこれおそらくですが自然環境だけで学ぶものとテクノロジーとないまぜになったものでは学ぶ難易度は格段に上がるだろうし、ここに人為的な悪意の偽情報も混ぜれば困ったことになりそうです。
で、ですねこんな状況でなにか学ぼうと思ったら私にどんな成功と失敗を期待しているのだろうか? という意図について考察すればなにか学べるのでは?と思えます。
例えば、
悪意のある甘言からはコントロールする指向性
悪意のある反論からは精神的圧迫
善意のある甘言からは有利点の指摘
善意のある反論からは間違いに対する忠告
他にも色々あるでしょうが単純にこんなものが浮かびます。
そして当然ですが各情報は各概念の檻という価値観を通すためそこにどうしても何らかの意図が乗ってしまいます。
さて本題です。 私がこれらから思いを馳せるのは三国志などで将軍や軍師が間者などから複数の情報が上がったときに近い状況と思えるからです。 こんな状況では最終的に卜占等の重要性が非常に高まるのでは?と思えるんですよね。
そしてこのような状況はSNSを含むネット情報の状況を示唆しているのでは思えます🤔
じゃぁ単純に書籍や旧メディアが絶対かと言えば、それもなと言う話ではありますので、ある程度の諦めに似た覚悟は必要に思えます。
「情報を信じることは他者を信頼すること、身体を信じることは自身を信頼すること」
この言葉の背景にはこういった思考実験があります。
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