「抽象表現」や「気遣い」はどのような経験を持って蓄積されるのか?
昔と言っても昭和だったと思いますが、テレビのドキュメンタリーで猟師のお父さんがマンタ(オニイトマキエイ Wikipedia)は水面を飛ぶという話をしたそうで、それを聞いた小学生の息子が学校で話したところ嘘つき呼ばわりされ虐められたという話を印象的に覚えています。
小学生ぐらいの子どもは「飛ぶ」という単語でリンクする光景はおそらく鳥などで印象が作られているでしょうから、魚が飛ぶと言われても「飛ぶって言ってもちゃんと飛んでないじゃん」ぐらいのイチャモンを付けるのは想像にかたくないです。
さて似たような光景で私がよく覚えているのは小学一年生のときに知っている魚を発表しましょうと言った授業で、ある女の子が「クマノミ」を挙げた所、若い女性の先生に「そんなの知らない」と言われて泣き崩れる光景を印象的に覚えています。
これらは、まぁ別にイジメの原因の考察ではなく、こういったことは子供・大人に関わらずそこかしこで悪意なく発生してしまうアクシデントに近いように思えます。
こういったことの失敗経験の積み重ねから色々学び成長するといった薄っすらとした認識が私にはあるのですが、これは今や特殊な感覚なのでしょうかね?
さて、最後に国語の授業で聞いた印象的な話を紹介します。
という句についてなのですが、この時の先生は昔教えた生徒に「水面が硬いわけがない」と言い全く理解できない生徒もいたという話をしていて、ものすごく印象に残っています。
私も別に俳句や詩に特段詳しいわけではないですが・・・
なんとも、形容できないモヤモヤした気持ちにはなります。
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