陽性症状とその解釈(映画:サイン)
M・ナイト・シャマラン監督の映画に「サイン」という映画があります、この監督は「シックス・センス」で知った監督ですがとても面白い視点を持って映画を作成するんだなと感じていて、結構好きな監督さんです。
さて、件の「サイン」ですが私の初見の感想ですが「統合失調症の陽性症状じゃねぇーかw」という感想で、まぁ我が身でドギツイのを経験しているからこそ感じる面白みがあるんじゃないのかな?と言った感想です。
さて、本題です。
私が陽性症状で苦しんでいた時期に、何かと町中の3という数字が印象に残り苦しんだんですが、何が苦しいかと言うと勝手に順位だと思い込み順位付けされることに憤慨していたんです。しかしまぁそもそも順位という認識が思い込みのように思えます。
さていざ入院して他の患者さんを観察すると、同じような症状に苦しんでいる人が見受けられました、配膳が1番上であるとか、入院階が上であるとかに執着してる患者さんなどがいて、「あーこれ共通する病気の症状だな」と感心したりしました。
今ではブログで考察しているように、かなり視点・認識は変わっていますが、やはり人間の習性の一つの発露だろうなと思えて面白いです。つまりは症状として体認される感覚は同一でも個々人の解釈によって行動に影響が出てしまうのでは?と思えたのです。
ですので私が成長過程で過ごした環境では数字と順位は結びつきやすく、それが檻となりこう判断したとも思えます。 例えば私が数秘術(Wikipedia)などが好きだったら解釈が変わったのでは?と思えて興味深いですね。
この当たりの概念の檻によって解釈が変わるとすると、いわゆる現代の月並みな表現で言う競争社会や現代日本の過度に超自然を嫌う社会について、明治時代以降の神仏分離で発生した波紋がことのほか大きく思えますなぁ・・・
神仏分離と神仏習合については別途考察しようとは思っていますが、大雑把に言って格付けを矩とする神道と平等を矩とする仏教が明治以降分離されたことで概念の檻にどういった影響があったかという話です。
では最後に数秘術から見る、私にとって都合の良い私にまつわる数字の解釈です^^
3 → ピタゴラスの定理や気剣体一致、三位一体、真(楷)行草など事象の成り立ちにまつわる印象があります、そういえば私の三層(天体、生態、文化)というのも3ですな。 少し大仰な表現をすれば「真理の扉」を表すとでもしましょうかw また3足の椅子は最も安定するとも聞いていますので「安定」も意味する感覚あります。
1と8 → これは私のHNに纏わる 「混元」 と 「八卦」 です。 混元は陰陽に分かれる前の混沌を表し命名以前の世界で八卦は無限への入口といった所です。
と、言ったところですね。
まぁ、こういうのは慣れないうちは小っ恥ずかしくも感じますが、これらは体認から生まれていますから我が身に飲み込むのは然程苦労はないのでは? と思えます。🤭
コメント
コメントを投稿