徒手が先か? 武器が先か?(武器術の(型)稽古は徒手競技、又は実践の役に立つのか?)

 




さて、現代において日本刀を含む武器術が稽古において実践的か? はたまた、その技が徒手格闘技の場で有用であるか? などはSNSなどに於いてちょくちょく話題にあがり争いの火種になる様子をまま見かけます。

では私自身は武器術を「稽古」することをどう捉えているか? ということがテーマです。

まず、浅層の話で恐縮ですが剣道などは警察でも大いに稽古されていると聞きますので、全くそんなものは役に立たん!と言った主張自体はほとんど無いのではと思えます。 だいたい焦点になるのはここでも型稽古でしょう。

では、一人稽古で剣術の五行の構えや居合いを稽古の一部とし、また過去には剣術の型稽古を経験している私はどう捉えているかといったことの説明となります。


例えば、「武器術が徒手技術のベースである」との言説はよく耳にします。 少なくとも私が学んだ「剣柔居」ではこれについて体認できる稽古体系が組み上がっておりました。 このことについて、いくらか理解しやすいと思える例を挙げるとすれば、『ピアノを学ぶ事でクラッシックに通底する音界理論を体認する』と言ったところでしょうか。 つまりは、ピアノ→刀、クラッシック→流派、音界理論→流派の基底理論 と言ったところです。

では、「逆に徒手技術が武器術のベース」にならんのか? との設問があったとすれば、もともと武器ありきの流派であっても、その派生で徒手競技などに特化して、そこからなんらかの展開(例えば護身術)へのフィードバックの流れがあるとすれば、当然のこと徒手の延長の武器があっても不思議では無いように思えますし、経緯を知らないので具体例は挙げませんが少なくとも私には徒手競技としての延長の武器技術に観えるものも散見します。

ここで、私の前提として武術は狩り技術をコミニティー間の闘争に転化したものが萌芽である、と言う仮説・考察がありますので、その根は「武器術→徒手技術」がベースであると言う前提条件があっての、その武術史的経緯に於いて幾らでも反転があっておかしくないのでは? と言ったところです。


では、結論を言えば武器の型稽古が徒手競技の役に立つのか?と言った設問については、

「いやー、自分のテーマに合わせて個人で工夫して見れば良いんで無いの? 私は薄っすらとしか徒手競技への興味も知識もありませんし🤔」

と言った身も蓋もない結論となる話でした。


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