漫画 『拳児』を思い起こして感じること(拳児とトニー譚から今観える事)
今回は私が武術に深く興味を持つようになるキッカケの一つ『拳児』という漫画を今思い起こして何を感じるか? と言った事をテーマとしてよしなしごとを書き込んでみようと言ったことがテーマです。
さて『拳児』と言えば、私の親の世代であれば『空手バカ一代』やブルース・リーと言った立ち位置で、この『拳児』とジャッキー・チェンが中坊のころの私にとってそれにあたる存在でした。 よく私が挙げる故黒田鉄山氏などは前段の『拳児』があったればこそ知ったわけで武術に対する興味からの延長で武術雑誌に目を通すことになりと言った経緯があります。この流れがなければ氏を知る機会はなかったのでは?と思えます。
ちょっと、軽く私が『拳児』を通して特に何に影響を受けたかと思い起こせば、剛柔を持つ太極拳の源流と紹介されていた「陳氏太極拳」や宮宝田のエピソードとともに紹介されていた「八卦掌」などで、当時から強く柔的な武術に興味を深く持つ傾向がありました。
当時の剛柔などの認識自体は現在の私の体認認識とは大きく違うわけですが、修行というものは得てしてこういったもので、初学の頃を思い起こして小っ恥ずかしくなったりするのは結構誰でも経験するのでは?と思えます。
後年、SNS上でだけでなく武術を通して交流があった方などから聞く『拳児』の評価などは、「あの漫画のせいで型(套路)だけやっていれば強くなれると言う勘違い野郎が大量生産された」なんて話を耳にしました。 そう言った意見を耳にするときに私が思うのは「そも拳児って喧嘩っ早いし、空手道場に組み手目的で定期的に通っているしで、どうしたらそんな勘違いが出来るんじゃろ?🤔」と言った感想です。 あんなに明示的に実践経験や乱取り組み手、研究稽古の重要性が提示されてるのにナンジャラホイ?と。 思い込みなんだかわかりませんが「貴様は何を言っているんだ?」と言った気分です。
まぁそう言った意見を聞くたびに「型(套路)が役に立つわけがない」という思い込みありきで武術に対峙している人達が一定数いるのでは?と思えるんですよね。 例えば私がお世話になっている富木合気道の先生なども「太極拳にも早く動く(套路)のもあるんだよね? あれなら戦えそう」と言った認識ですし、そも型(套路)に向き合うと言う認識が自身の経験した武術観が檻になりその延長でしか評価できなくなるのは大抵の方がハマる罠のようにも思えます。 まぁ武術未経験者が勘違いするのであれば1000歩譲って理解できなくもないので。
では、「そういうオメーは言うほど何が理解できてんだ!😡」と詰め寄られれば、まぁつい最近までは故黒田鉄山氏の書籍を基底にした考察で受け売りに近い認識であり、最近になって光岡老師との交流で「浅いながらも然程 方向性は間違っていなかった」と言った体認経験を伴う確信に繋がったといった程度ではあります。
さて、拳児に通底し明示されている分かりやすいテーマと言えば 拳児 と トニー譚 とのライバル関係があるように思えます。 拳児 が八極拳を主軸として究道的に生きているのに対し、トニー譚はそんな拳児に自身が否定されているように感じ執着するようになると言ったものです。 拳児は自身が壁に当たるたびに何故か彼に引き寄せられるように師となる人物が現れます、一方でトニー譚は強さを求め、自身の生き方を否定するように感じる他者を排除していくような生き方をしてきたように思えます。 まぁこう言った二人の視点の違いがあるため、拳児にとってトニー譚は「ちょくちょく直面する課題の一つ」でありトニー譚にとっての拳児は「自身の人生、生き様を全否定する存在」として認識しているように見受けられます。 そりゃトニー譚は軽く見られているようで気に入らないでしょうし、拳児から見れば何故自分に執着するか理解不能でしょう。
私がどっちタイプの人間であるかはともかく、こういった対比は道場内でもちょくちょく見受けられるでしょうし、人生というバカデカ主語でもちょくちょく直面する問題かも知れません。
少なくとも、この二人と学んでいく武術に対する姿勢として、拳児は自身の課題また八極拳との対比を持って他流派に敬意を持ち貪欲に学んでいきますが、トニー譚は弱者への侮蔑を持って以前まで学んでいたものと自身の学ぼうとするものを自身の価値基準範囲での強弱で持ってのみ測り、以前のもの又は自身の価値基準範囲外のものを侮蔑を持って捨てていきます。
まぁですね、拳児にように生きるのは難しいのは私にもよーわかるYと言ったところですが、トニー譚にしても又、李書文にしても反面教師として漫画内で機能していますので余計な深読み(漫画内の人物が誰々がモデルで実際はこういった人間だみたいなこと)をしなければ、素直に学べるところが多い漫画ではなかったか?と、今になって思えるのですよね。
追記: 若い頃に読んで好きだった武術漫画として「セイバー・キャッツ」と言う作品もつい最近読み直しました。 当時の時代背景と漫画的演出を反映した名作だと自身では思ってはいますが、前記の理由からでしょうが武術に対する神秘性の誇張が結構大きいようには感じますので、こういった感覚を未だ引きずっている方も多いのではないのでしょうか? 例えば、かなり年配の方の中には中国武術をひっくるめて中国空手と呼び、些か見下してるように感じる方にもたまに遭遇します。こう言った人たちの若い頃の映画は中国武術はこう言った扱いであったようで、その印象(概念の檻化)をなかなか拭えないのもわかる話ではあります。
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