武術の本質は語り得るものなのか?

 



大昔に読んだ武術雑誌に、中国のある地方の港湾労働者と心意六合拳の関係性についての記事を薄っすら記憶しています。まぁ正確に覚えてないですが、「日々の仕事を得るためにぶん殴りあいが必要であった」と言った内容であったと記憶していて、個人でなくコミニティーの縄張り争いにおいて武術は死活問題であったことが予想されるエピソードに感じました。 また、陳家溝においては10代の少女であっても槍を持ち馬賊などから村を守る必要があり、陳家の武術は重要であったなどの記事も記憶しています。


これらの記事を読んだのは随分昔ですので、記憶違いや新事実の発表によって内容の信ぴょう性などは変わるでしょうが、こう言った環境にいたり、またこう言った逸話に憧れて武術などに触れれば、そのコミニティーの自他共に認める実力者ならともかく、大した実力もない初学者が「死生観が武術の本質」などと御託を並べれば「ぶん殴りたくなるのも分からん話ではないよなー」と私であっても思ったりはします。


沖縄の「」においても歴史的経緯において武具を奪われたうえでの反抗が必要であったであるとか、武術と一口に言ってもその文化圏の歴史的経緯において、また修行者のレベルや有り様に於いて指向性は変わるのは常のようには思えます。


まぁ転じて初学のうちから高尚な御託を並べられるくらいには「日本はまだ平和だよなぁ」なんて思えたりもします。 色々最近は不穏なニュースを見聞きしたりはしますが。


こう言った思いが私にはあるので、例えば喧嘩に勝つためなんてのは、私個人の指向性とは違うので興味の薄い価値判断ではありますが、だからと言って下に見ているとかは全く無く、SNSで散見されるちょっとしたトラブル事を目にすると賛同したくもなることも多いのです。


一方で本土の日本古武術なんてのを時代にしろ地域にしろ十把一絡げで語れるものでは無いでしょうが、「天狗藝術論」で描写されるように小天狗の鼻はバカみたいに高くて、大天狗をもってしても大分低くなった鼻をいまだ気にしている描写なんかは、私自身は示唆的に感じて好きです。

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