技を盗むとは?
普段、公園などで稽古しているのでフッと思い出すことがあります。 太極拳の道場で中級に進むと定期的に中上級以上の稽古会があり、公共体育館の一室を締め切って秘匿性を意識した稽古がありました。
内容についは初級で習うことの延長でしたが、とても小さな相違でしかなく、転じてその小さな違い一つが秘匿を必要とする重要事項であったと言うことです。 その当時習ったものを今思い出してもピンとこないものも確かにありますが、実際の所 私の時代でもこう言った稽古はかなり神経質に秘匿性を重視しました。
しかし、これは一つ技を盗むのはもちろん、稽古体系などの一部を盗むには「眼力」が必要であり、まぁそうそう誰にでも出来ることではないとも解釈できます。 よく、形なり套路なりの動作をなぞっても何の意味もないと主張される一因となっているように思います。
こう言った前提条件を持って例えば陳家溝での楊露禅のエピソードや「拳意術真」などで紹介される「未熟の頃は自身の技を隠すことを重んじたが、老境にて包み隠さず渡したくなり、昔を思い出し恥ずかしくなる」と言ったエピソード、中山博道 と 黒田泰治 を巡るエピソードなどを思い起こして色々感じることも多いです。
それは、兎も角 私が普段 公園で稽古しているものは、いわゆる基礎稽古的なものとその研究稽古で、屋外であるため座構えや受け身、また一人稽古ですので相対稽古が出来ないだけで、意識して秘匿しているものはありません。
転じて言えば、私程度の稽古からでも何か盗んだ気になって、形をなぞるだけの動作をしても、あまり役に立たないんじゃないのかな? と、思えるんですよね。
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