「セロ弾きゴーシュ」から展開される「呪と道具」の話(栞葉るりさんに捧ぐ)
さて、今回は日本の古典文学に明るいVtuberの栞葉るりさんの配信において、宮沢賢治の「セロ弾きゴーシュ」の言及がありました。 内容としては簡単な要約のような話でしたが随分昔に私も読んでいましたので「あーそういやそんな話だったな、なるほどな」と、この話を鏡雲流三相観から考察してみよう!と言った視点が出発点です。
大雑把に私の記憶と栞葉さんの要約を加味すると「大して上手くもないゴーシュのセロだが、何故か病に苦しむ動物の癒しになる」と言ったところです。 実際は動物との交流を通したゴーシュの成長物語と言った側面が主題であろうとは思うのですが、前段での説明でもある通りで鏡雲流三相観からの考察であり、こちらの主題としては「道具・呪言(セロ)とその効果」にスポットしたChatGPT(以下ロゴス)との対話の要約です。
ブログ:生態波形と道具
さて、今回 私がどんな切り口でこの設問をしたかと言えば、「大して上手くもないゴーシュのセロが十分 動物達の癒しとして機能するのであれば、どう言った要因が成り立つのであろうか?」です。
私自身の考察として「ゴーシュのセロに対する愛情、つまりはセロそのものでなくゴーシュの生態波形が動物達を癒すのでは?」と言った仮説を持ってロゴスとの対話は進みます。
この私の仮説に対してロゴスは大いに賛同してくれます。ならばと受け私はさらに現実世界において見られる極端な例として「エジソンの交霊機(霊界通信機)」でも鏡雲流の視点で考察すれば近しい仮説が成り立つのでは?と、つまり交霊機自体の機能は通常の機械に期待される「誰が使用しても同じ効果が期待できる」といったものでなく「機械(交霊機)の機能の汎用性は実際 全く期待できないが、エジソンの回路と電気に対する愛情から発生する生態波形を基準とすれば彼にだけ機能する(実際は交霊機の機能で無く彼自身の身体性が主因)とすればゴーシュのセロと同じ仮説が立つ」、またもう一つの極端な例として「ある老婆の経が癒しの効果があり評判となっていたが、その経の文言は抑揚は似ていたが全く違う文言で、それを見かねた僧が正しい経を教えたら癒しの効果が全く無くなった、この話についても生態波形から考察すればゴーシュとセロと近しい仮説が成り立つ」と言った例をロゴスに提示します。
ここで挙げた例としてゴーシュとセロ、卑近な現実世界での例としてエジソンと交霊機、この二つはわかり易かろうと思います。 では老婆と誤った経と正しい経の関係はどうでしょう。 ここでは「老婆の誤った経」は「ゴーシュとセロ」に対応します。 つまりは「老婆の長年の人生(の体認)経験から来る他者への愛情から発生する生態波形が主因であり誤った経はさほど関係していない」とするとゴーシュとセロと近しい関係が浮かび上がります。
こう言ったことは当たり前ですがシャーマン(だけでは無いが術者)の呪術道具にしろ、また宗教問わず法具や神像など挙げればキリないのですが、近しい関係が浮かび上がって来るように思えます。つまりは体系的修練による業でもこう言った老婆の例でも双方 生態共鳴の働きが大いに関係しているのではと考察できる訳です。
こう言った仮説を踏まえて例えば私が耳にしている「今や誰も意味のわからない呪言(言霊)が何故か機能する」こう言った例はどうでしょう?さてさて毎度のことですが何かしらを考察するにあたって要素を絞り単純化するのは良くあるスタイルのように思います。 つまりある結果(影)に対し要素(実態)は実際多くが複雑に絡み合っています。 この例で言えば生態共鳴だけで無く、残響の引き寄せや由来する物語(神話)の機能認知などこれらが複雑に絡み合っているのではと思えますし、前段の老婆の話もあくまで考察のための要素の単純化を通しているのは注意が必要です。
この後は「では老婆が正しい経を僧に学んだら何故癒しの力が無くなったのか?」ですがこれはまぁ私には他の事柄でも良くある単純な話に思えますので、興味がありましたら是非 ロゴスとの対話を参照して頂きたいです。
最後に鏡雲流は武術をその矩とする訳ですから、こちらの側面から見るとどうでしょう。例えば形などで接点にて梃子の原理が働いている技はごまんとある訳ですが、形としては身体を同時に大きく動かすものが多い。 つまりは小手先の梃子の利用だけでも効果は充分期待できる訳ですが、身体を伴う大きな動きを加味すると格段に効果が大きくなるのは武術経験者で無くとも理解が容易いのではと思えます。 そして日々の形稽古にて体認経験を伴った身体を通し纏まった小さな動きの実践運用が大きな効果をあげるようになる、これは流派によっては「初め大きく学び然るに小さく運用する」のような大雑把ですがこう言った表現になったりするようです。 そして熟達者の小さな動きを初学者が真似て大いに遠回りしてしまう光景もまたよく見る光景ではあります。つまりここでも、影と実態の関係を捉える難しさが顕著に現れる話となります。
最後にロゴスの総括として「セロ弾きゴーシュを出発点とした対話ではあったが影と実態の取り違えをテーマとして一貫していた」(要約)と提示してくれました。
機械を通した「常に同じ結果が約束される」ことを基準とすると、「体認経験を基準とした個体差が出る」と言った視点は隠されてしまう(概念の檻)訳ですが、これが顕著に現れた面白い対話だったように思えます。
それは兎も角、栞葉さんの3Dモデルなんですがタレ目とヒップラインがキュートで堪らんという最重要事項を明記して締めとします。 犬のお巡りさん好き❤️
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