雲流で目指す「普通の人」
今回は過去ブログで言及しているミカエル・リャブコ氏の言葉とされる、 「システマを学ぶことで、『特別な人』になるのではない。『普通の人』になるのだ」 について、雲流視座から改めて考察しようという趣旨です。 AI(Gemini): 雲流で言及される「普通の人」 該当の記事はかなり初期に書かれたものですが、鏡雲流が雲流に、内観が「汝、自身を知れ」に通底愛が愛に呼称替えする話にも連なります。 また、『天狗藝術論』での小天狗は鼻も高く立派な羽を持ち、大天狗は鼻も低く羽も無い…だから自由自在に一番近いと言うエピソードにも。 そう言えば、植芝盛平が植芝盛高と名乗り植芝盛平に戻すというエピソードなどはこの視点ですと示唆的です。 兎角、大きな苦労に大きな対価は自然な欲求のように感じるでしょうが、例えばジャングルの原住民がヒョウに襲われて命からがら撃退しても、苦労したからジャングルの物を全部受け取る価値が自分にあるとは思わない。 これは、まさにネイティブ・アメリカンの「所有」に対する体認感覚そのものでしょう。 こう言ったことは現代でシャーデンフロイデに由来する、先進国などの格差が欲求の肥大化を生む例も見聞きします。 であるからこそ釈迦などに見られ高貴な血筋由来の特権の放棄が、修行の第一歩として機能することにも見られるようにも思えます。 つまりは、過剰な贅を経験した人物と、苦労して贅を手に入れた人物では、執着を手放す難しさは格段に違うでしょう。 面白いのは、常に武術は後者の難しさを内包します。 『天狗藝術論』の小天狗は各専門性を語り、大天狗は心法を語っていたと記憶しています。 これは十牛図でもわかりやすく示され、武術との関係に近しく、ドラクエの遊び人が賢者へなる話は釈迦のケースに近しい。 ふむ、武術ではどうでしょう? 柳生新陰流などで言及される無手の位が真剣白刃取りにと連なると言った話を耳にしていますね。 『武器を追求した先に無手がある。』 ここまでの境地はともかく、大抵は体認経験が積み重なるので心配する必要が無い話ではあるんですよね。 例えて言えば児童が自転車の補助輪を外す程度の自然とそこに至る話ではあるのですがね。 つまり、自転車は習熟していくと補助輪はかえって邪魔になって行く経験をしている人は多いでしょう。 これなどは、師である光岡などは「身体の声」などと表現していて、こ...