陰陽を体認するとは?(漫画:あかんべェ一休)
今回の題材は漫画:あかんべェ一休(坂口尚)(Amazon)から陰陽の体認についての話です。
題名からも分かる通り「一休宗純」の生涯を綴った物語がこの漫画ですが、初読みは30代の頃であったと記憶しています。 で、数年前にKindle版が発売されているのに気が付き早速購入しました。
今回取り上げたいのは 一休と名乗る以前の周建と名乗っていた子供時代のエピソードからです。名門である五山叢林で仏法を学ぶ周建は内部の腐敗ぶりに嫌気が差し飛び出したあげく、貧しい人々に寄り添う乞食のような風体の謙翁和尚に弟子入りをし宗純という名を受けます。 その修業の終盤にこういったやりとりがあります。
謙翁:「わしは おまえを何度か叩いたことがある・・・・・・ あれはな差別の心を叩いたのじゃ」
宗純:「差別・・・・・・!?」
宗純:「和尚様! 平等こそ仏法の根本・・・・・・・ わ 私にはそのような気持ちはありません!!」
謙翁:「そうかな・・・・・・ では なぜ 心の塵を払いたいという?」
宗純:「え?」
謙翁:「おまえが”チリ”という時”清浄”が ”清らか”という時”汚れ”たものが おまえの心の中に生まれるのじゃ
おまえが”善き”ものと思う時、”悪しき”ものを生んでいるのじゃ」
ここまで宗純は五山叢林での腐敗の憤りから「清らかに生きる」を眼目として修行しに来たら、坐禅などを行おうとするたび謙翁和尚に怒られるわけです。ここでその理由が明かされます。
ここで語られる謙翁和尚の話は理屈としてはとてもわかり易くとも、その体認(腑に落とす)するのは非常に難しい「陰陽」の法則そのもであると、私も最近気が付きました。
というのも
私は最近こういったポストをしたのですがしばらくして「あーこりゃあかんべェ一休のアレだわ!」とハタと気が付きました。
さて、話を少し変えまして私は以前通っていた道場で「武術・武道界って宮本武蔵に呪われてんじゃねーの?」と話したことがあります。 これは、多くの人が天下一(世界一)になることが武術・武道の至高の道のように捉えているように思えて、まぁこれもともとは格闘技の影響かとも思っていたのですが、あまりにも引きずられている人が多い印象でしたのでこういった思いに至りました。
例えば現代の日本という国家をこういった視点で見ると見栄ばっかり張り中身の無さの印象から「三島由紀夫の呪いじゃねぇーの?」と思えたりします。
実際こういったことは 「概念の檻」 からの考察は可能でしょうが、人によっては故人を辱めるような行為にも感じるでしょうから、ここでは私の単なる浅い印象ということにしておきます。
で、ここで私が「呪い」とネガティブに表現している概念ですが、ちょっと陰陽から見直してみましょう。 実際 (再掲)波形ネットワークの可能性 でも言及する通り言霊に引きずられるため、こういった表現自体が陰陽の表現として不適切ではあります。
では、例えば武術を題材にすれば、天下一を陽とすればそれ以外は陰となりますし、それ以外を陽とすれば他は陰となります。 つまりは陰陽そろって一つのものとすれば、価値観としてはその人物が重視する立ち位置程度の感覚になります。
ですが、まぁ浅い捉え方ではありますが価値観を一本化する利点としては利権構造を構築しやすいため資本主義社会においては”正解”となってしまいがちです。 実際、多くの人が指摘する通りお金を生むこと自体は然程悪いことでは無いのは私の認識も共通してはいます。 大きなお金が動けば多くの人を巻き込み多くの人の収入に結びつく と言った指摘はよく目にしますし、これについては「仰るとおりですわいな」程度には私も認識しています。
ですが私が陰陽を題材に指摘しているのは ”正解” を決めてしまう、または「正解という概念の檻」に閉じ込められることが、かなりマズイですよ! と言ったところの指摘です。
こういった概念の檻に閉じ込められているのを気が付かないばかりか、利権構造により”正解”があると思い込んでしまう危険性の指摘です。 よく見かける光景では自身の価値観以外を見下し、造語まで作ってレッテルを貼り見下すさまは私自身はかなり醜悪に感じたりはします。
こんな感じで、今回は陰陽から見る概念の一本化の危険性についてでした。
最後にその後の宗純ですが、謙翁和尚とは真逆と言って良いアプローチをする 華叟和尚 に弟子入し まぁ文字通り「陰陽」を体認経験することになります。
どっとはらい(^_^)/~
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