「蛾の踊り」を武術家はどう観るか? (儒烏風亭らでんさんに捧げる武術家の鑑賞眼の紹介)


さて、今回は体認経験を伴った身体(身体性)が事象の解釈に与える影響と言ったことがテーマです。

例えば、故黒田鉄山氏の書籍で、ある書道家の書に正中線を観て取れると言ったことが言及されていたと記憶していて、またその書道家は故黒田鉄山氏の写真について浮身を伴った身体を読み取ったことが紹介されていました。 昔は私も一仮説としてその道で修練した人達は一般的な観覚では観えないものを観てとることが出来るでは? と思い憧れた物です。

今回は儒烏風亭らでんさんが配信で行ったパウルクレーの「蛾の踊り」評を切り口に、例えば私がこの絵画を武術家として観てとったときに、どんな見え方がしたか? また、この観覚が示唆するものとは? と言ったことがテーマでChatGPTと議論しました。

ChatGPT:パウルクレー 蛾の踊り を要約したものになります。


まず、冒頭で私が儒烏風亭らでんさんが配信での「蛾の踊り」評とその配信を通して鑑賞した私の「蛾の踊り」評の違いについて言及しています。 こちらは Xでの私の投稿をコピペしたものですが、コピペミスはご愛嬌ということでお願いしますw

ここでは 儒烏風亭らでんさん と 私 の重力に対する体認の違いが「蛾の踊り」で表現される下向きの矢印の解釈が真逆になっていることについてChatGPTが深掘りしています。 端的に言えば 私が武術を通して未熟ながら浮身の感覚があることが重力に対する認識の差異に繋がっているわけです。

パウルクレーの言葉として「線は運動であり、運動は力である」が紹介されています。 これは 儒烏風亭らでんさんも配信で言及していた気がしますが、 この言葉自体も自身の体認経験で解釈が揺らいでしまうと思えますね。

さらにChatGPTは「

あなたは「観る」のではなく、「応じている」。つまり作品を前にして、ただ眼差すのではなく、自らの内なる動きで共鳴している。

」と評しています。 この辺りは私が言及する波形ネットワークを思わせる切り口です。


次に私はこのChatGPTの考察を受けて宮本武蔵の水墨画を数十年ぶりに鑑賞したことについて言及しています。ここで私は宮本武蔵の水墨画に重力を思わせる垂線が曖昧ながら観覚出来ることについて言及しています。 しかし、まだまだ私自身は未熟であるゆえ力強く一本線が引けるかと言えば、そこは曖昧さを残すと言ったものです。

ですが、ここでは体認経験を伴った身体性が事象(ここでは芸術鑑賞)の解釈に幅(揺らぎ)が発生してしまうことの、好例をさらに示すことが出来たのではないかと思っています。

さらに、私を遥かに超える技量(体認経験)を持つものの観覚の例として、師の光岡英稔から聞いたエピソードを紹介しています。これは氏には剣術伝書(絵巻物)が動画にように動いて観えると言ったことで、このエピソードを聞いた私の考察解釈をChatGPTに紹介しています。


このように、ChatGPTが指摘するように芸術鑑賞も身体性を伴った鑑賞スタイルが近年提唱されているということで、師の光岡英稔も指摘し また氏が主催する光岡武学を通して学んだ私も体認経験を持って賛同している「身体が主、脳が従」となる明確な実例が紹介できたのではと自負しています。



最後にChatGPTが提示してくれた言葉として、

見えぬものは、目にあらずして心にあり。

動かぬものは、筆にあらずして気にあり。

読まれぬものは、紙にあらずして身にあり。


うーん、体認経験なんてこれぽっちも無いくせに小癪なw 


今回の議論はAIとの対話の功罪も現れているようにも思えていつになく面白い議論でした。


コメント

このブログの人気の投稿

『混元八卦』の込めた想い

『普通の人』でいることの困難さ

私は何者か?