私は武術と競技スポーツ(格闘技 等)をどう捉えているのか?

 




「私は武術を闘犬として使いたく無い、盲導犬か牧羊犬として使いたい」

これは以前、私がTwitterに書き込んで当時所属していた道場の指導者に「知ったふうな口を聞くな」と叱責された書き込み文言です。

今改めて自身で読み返すと競技格闘技の批判に見えるかも? と思えなくも無いのですが、真意としては他者のために武術を通して貢献したいと言う気持ちの現れの対比として闘犬、盲導犬、牧羊犬と書き込んだものです。 しかし、闘犬と言う表現が競技格闘技は表していないかと言えば、意識はしている訳ですから表現が良く無いのはその通りだと今になって思えます。

昨日、お世話になっている富木合気道の稽古日でしたので、道場に行って稽古をしたのですが、毎度 稽古が始まる前の時間に武術に興味がありそうな人に声をかけて、相撲もどきのようなものを通して遊び稽古に付き合ってもらっています。 私の武術は基本的にハワイアン八卦掌に古武術(剣、柔、居)を組み込んだオリジナルスタイル(と言えば聞こえがいくらか良い我流)な訳ですので、お相手していただける方には富木合気道では体験が難しい一風変わった技術を楽しんでいただけるのでは?と思っていたりします。 そも、合気道は私は下手くそですしw

で、そこでお相手していただいてる相手から質問がありました「アマレスの吉田沙織さんのようなタックルに対処できますか?」と言ったものです。 そこで、内心思ったのは「そもアマレスの例えば国体レベルの選手でも対処が難しいのでは?と思える吉田沙織さんのような方を何故 町道場のおっさん相手の対比に持ち出すのかな?」とw そこで私が答えたのは「方法論があっても対処できるかは別ですよ」と言った感じで答えました。 例えばお相手している方のアマレスタックルと吉田沙織さんのアマレスタックルはそりゃ同じじゃ無いとちょっと考えればわかる訳です。

他には例えばSNSで見かける武術的アプローチとして「目付き、金的ありでのスパーが基本」でないと稽古にならないと言う主張を耳にしたりします。 私はこれについては同意も批判も有りませんが、「うーん、剣術を通して中心をとる感覚磨けば済む話じゃないのかね? その方が安全だし」とは思ったりします。

そこの稽古スタイルを慕って人が集まるのですから、ドシドシやれば良いんでないかなとは思いますが、例えば他所の競技会で目付き金的禁止の場所で平気で出すようになるのであれば、「初代ベストキッドの悪役かな?」みたいな感想を私は持ちますし、そこの稽古会を通して使い分けが出来なくなった人とは危なくて稽古できんよな… とは思えます。

私は競技全般についてこの程度のうっすい認識しか無いので、まぁ多くは語れん訳です。

私は、前段で挙げているように実戦よりは実践を重視していて、その表現としての現れが「盲導犬、牧羊犬」ですので、ガチガチに競技を意識している人達からは理解されづらいだろうとは思えます。 が、決して見下している訳でなく興味が薄いだけですよという話でした。

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