人類(脊椎生物)の中点としての站椿







今回は初めて光岡老師のもとで教わった王向斉伝の站椿につて、私が現段階で何を感じ、王向斉が何故「これだけやれば良い」と言ったのかという解釈の話です。

前置きとして私は意拳を専門としている訳ではありませんので、あくまで浅学者の主観であります。 ご笑納して頂ければ幸いです。

ブログ: 私にとって共鳴テンセグリティという物理モデルが存在する意味 でこの站椿についての性質から何を感じたかについて紹介していますが、今回はこう言った事でなくこの養生功として指導された站椿が何故 表題のような解釈に繋がったかという話となります。

さて、養生功クラスとして参加したこちらの教室でしたが、全体の流れを今覚えているかといえばかなり忘れてはいます。 ただ、老師はこのクラスで四足歩行の生物を模し両手両足を存分に使い歩行することを指示したのはよく覚えています。 つまり、この四足歩行が站椿の体認経験においてかなり重要であると言うことです。 ですが当時の私は当然 初体験でしたので言われるがママにアレコレ考えず行いました。 「感じ」又は「観じ」ながら稽古をすると考えることは難しいのですが、後々にこの教わる姿勢は光岡老師の教授方法とある程度は親和性が高いなと思えるようになります。

それは兎も角として四足歩行の体認経験を経由して指導された意拳の站椿は、私が太極拳などで指導された馬歩站椿とは大きく趣の違うものでした。 太極拳などで抱球などと形容される腕の状態はよく似ているのですが、前傾が強く、腕だけでなく身体全体をもって球体化してるようにも思える姿勢とも観じ、また視線は前傾が強いため斜めに地面へと自然と落ちます。

さて、ここから先は養生功クラス以外の座学を通してこの站椿について色々気づいていくのですが、その特徴として一言で言えば「身体の中点」とも言うべき姿勢だなと。つまりは主要な関節の際と際の中点を持ってこの前傾気味の站椿を形作っているなと、また前段の四足歩行と二足歩行の中点でもあります。つまりは「人類としての中点姿勢」とも言うべき姿勢であるなと。

これが表題にも繋がる王向斉伝の站椿について私が現段階で観じていることでありますが、当然のこと専門として修練されている方々からは色々異論はあるやとも思います。 しかし、私がこの思いに至ったとき「王向斉ヤベェな、こりゃとんでもねぇぞ」と観じたりはしました。

では、もう一つの設問である 「何故、王向斉はこれだけやっていれば良い」と言ったかの解釈について言えば、実際にこの站椿を指導された方々は色々な流派の高手であったとも聞いていますので、「皆さん自流派で十分修練された方々でしょうから、今一度 人体(脊椎生物)としての無意自然に立ち返ってみては?」と言った思いがあったのでは?と仮定すると、前段の私の王向斉伝の站椿の解釈と無理なく繋がるのではと思えるのですよね。

最後に、最近はこの站椿も三体式の変化とも思えますので、その変化について思いを馳せたりしています。

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