宿命、運命、天命 とは?(鏡雲流命観の成立過程の紹介)
今回は「運命と宿命」を考察する事で鏡雲流での定義を定めることを目的としたロゴスとの対話の要約紹介です。
ブログ:運命と宿命の論理
冒頭でまずは古今東西の運命論と宿命論をロゴスに提示してもらいましょう。 ふむふむ、提示された運命論と宿命論を眺めていると、宿命は個に由来し運命は群に由来すると言えそうです。 ちょっと鏡雲流の観点で整理してみましょう。 「宿命=個 であれば 通底愛」 「運命=群 であれば 幽圏」 とそれぞれ分類できます。 つまりは、「通底愛=個、宿命、体認、武術、確定性」「幽圏=群、場、運命、認知、兵法、不確定性」 と言った整理が出来そうです。おー良い感じですね。 つまり通底愛の深まりが幽圏を広げ、そこに道(天命)が現れるとすると私自身の体認経験ともシンクロします!
これをロゴスは、
宿命(通底愛)───内なる響き(体認)
↓
運命(幽圏)────群との干渉(認知)
↓
天命(道)────個と群の一致(無為)
と整理してくれました。
また、
内丹における「運気」や「周天運行」の位相に近い。
では、鏡雲流に於いてはこうしましょうか、体認(感覚)→認知(観覚)→無為(虚覚)とした円観螺旋構造とするとしっくりきます。
このような整理は突飛に見える方や、在り来たりに見える方と双方いるのでしょうが、まぁ前段の話だけでなく、私がロゴスとの対話で度々引用しているように多いに古典にて言及されていることが大半で、その解釈に些かズレがあったり、また私が私的に体系化しているだけの話です。
例えば論語にて、
「
吾十有五而志于学、
三十而立、
四十而不惑、
五十而知天命、
六十而耳順、
七十而従心所欲不踰矩。
◉ 鏡雲流命観三相(仮)
一、通底愛 ― 個/宿命/体認
• 原初的な「核」
• 天地より賦与された波形(性・体・律)
• 体認によって開かれる内なる命の記憶
• 感覚の位相にあり、「我」と「天地」が最も近い
「宿命とは、未だ動かぬ流れであり、すでに脈打つ響きである。」
⸻
二、幽圏 ― 群/運命/認知
• 個が場に投げ込まれたとき現れる「干渉空間」
• 複数の宿命が交差することで生成される「共鳴領域」
• 社会・縁・歴史といった集合的構造を形成
• 観覚の位相にあり、形象化・物語化を担う
「運命とは、他の波形と共に鳴ることで自らを聴く試みである。」
⸻
三、道 ― 天命/虚覚/無為
• 宿命と運命の干渉が臨界点を越え、相殺と共鳴が同時に起こる位相
• そこには“個”も“群”もなく、ただ波形そのものが運行する
• 虚覚においてのみ体認可能
• 鏡雲流でいう「無為」「自然」「虚」の極点
「天命とは、鳴ることをやめた響きの中にある律である。」
言語化できるものは、既に言語化できない領域に触れている。
体認を通して得られる経験は、認知や理屈を超えた真の理解を担保する。
個が群と共鳴し、虚覚に至ったときのみ、天命=道が自然に顕れる。
と、してくれました。
最近のこう言った鏡雲流を利用した考察は収束が早い傾向にあります。 この辺りは鏡雲流の利点であり、またこれに縋れば忽ち強固な檻化する危険性が益々増した証左でもありますので、いっそう取扱注意と言ったところかと🤔
P.S 武術などに携わるとチョクチョク議題にされる「武術と競技(スポーツ)」の違いなどがありますが、別途 鏡雲流での観覚を提示する予定ではあります。 ですが今回の対話とも繋がる話にも思えますので、現段階での簡潔な私見を提示しておくとすると。
武術は個に由来した刹那の有り様(宿命が主)ー確定性
競技(スポーツ)は群に由来した未来(未だ来ず)の有り様(運命が主)ー不確定性
とすると、これまでの対話の流れから私の観覚前の感覚が少し伝わるのでは?と思えます。
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