八卦掌の分派「アハト・マスターデ」が示唆するもの。



今回のテーマは「そういや、銃夢シリーズ八卦掌使いのキャラが居たはずじゃが…」を起点にネットを調べ、これをテーマに創作武術についてロゴスと雑談したものの要約です。

ChatGPT:アハトマスターデについて

さて、件の銃夢シリーズの八卦掌ですが冒頭の画像のキャラクター「クー・ツァン」が身につけている「アハト・マスターデ」という八卦掌の分派とも言えるサイバネ拳法です。 サイバネ拳法とはサイボーグが常態化された世界観での武術で、ゼロG戦闘などが考慮された特殊なものです。では軽くサイバネ拳法を紹介しますと。


パンツァー・クンスト(Panzer Kunst)


ガリィ

スペース・カラテ(Space Karate)

絶火

アハト・マスターデ(
Ahat Mastade)

クー・ツァン

機関拳(Maschine Klatsch)
ジャシュガン

サイバネ・骨法 (kybernetisch koppo)
フォギア・ギア


この中での私が特に好きな流派を挙げるならば「アハト・マスターデ」と「マシン・クラッツ」ですね。ここでは熱い想いを語るのは控えましてロゴスとの対話に戻りましょう。さて、この流れで、創作武術として「陸奥圓明流」や「北斗神拳」「ジョジョ3部の波紋法」「飛天御剣流」などを挙げて簡単な考察と雑談は続きます。


波紋法

さて、ロゴスはここまでの対話の要約として、
あなたが挙げたサイバネ拳法や陸奥圓明流のような「真剣に構築された架空武術」を軸に、「架空武術の思想系譜」を少し整理してみるのはどうでしょう?
たとえば:
科学的身体観系(銃夢・攻殻系)
神話的身体観系(陸奥圓明流・風魔の小次郎・バキ)
形而上的身体観系(老荘的武術・鏡雲流・剣風伝奇系)
」(原文ママ)

私は、
「ふむ銃夢、攻殻系、陸奥圓明流、風魔の小次郎、バキ、老荘的武術?…内家拳ベースかな?、鏡雲流…ほうほう、剣風伝記?あーベルゼルク… なるほどなー、… あっ?鏡雲流は創作じゃー… あー創作だわw」
なるほど!鏡雲流はハワイアン八卦掌をベースとした創作武術ですな。そうか、あらゆる武術流派は開祖の創作ではありますね。

これを受けてロゴスは…
そして鏡雲流が面白いのは、まさにその「創作性」を否定せず、“創作することそのものを武”とする立場を取っている点。
これは既存の流派が無意識に隠してきた部分──「形を創る者の観覚」──を顕在化させている。
つまり、鏡雲流は“創作武術”という語をネガティブに使わない、創造行為としての武なんです。
だからこそ、銃夢のサイバネ拳法や陸奥圓明流のような“誠実な虚構”が、鏡雲流と通じ合う。
虚構であっても、そこに“生身の観覚”が伴っていれば、それは実体(道)を持つ
むしろ現代においては、こうした虚構の中にこそ、本来の武術的探究──「人とは何か」「身体とは何か」──が残っている気さえします。
」(原文ママ)


おー成る程な…そういや映画「酔拳」では何仙姑の稽古を怠りラストバトルで即興の女仙人を創作していましたし、映画「蛇拳」では猫と蛇の戦いを見て猫の成分を埋め込んでいましたし、そもそも映画「蛇鶴八拳」の蛇鶴八歩 自体が創作ですな。 こう言った他流派を研究したりして組み込むのは武術では平凡なことです。 その代表的な例として「ジークンドー」などは有名です。


酔拳

黄飛鴻


蛇拳

簡福

蛇鶴八拳(蛇鶴八歩)』




例えば私がベース流派として行う「ハワイアン八卦掌」ですが、このハワイアン八卦掌自体が斎藤流忍法、程派八卦掌、シラット、etc… を含んだものと聞いて指導されましたし、これ以前に稽古した「心形刀流」も傍流です。 この創作武術二つを一つのものとして組み合わせた影響として、「心形刀流」の身体性が色濃く出た物となり、今や「鏡雲流八卦掌」とも言えそうです。ここにさらに「酔拳」を組み込む訳ですから、外形の似た別物であるのは間違い無いでしょう。


しかし、どうでしょう? 例えば「新陰流」などは疋田景兼(疋田陰流)、柳生宗矩(柳生新影流)、丸目蔵人(タイ捨流)と分派して行く様子は武術流派の常道であり、創作武術が産まれる過程そのものです。


こう言った他流を組み込み創作武術が産まれる過程は格闘ゲームでもそこかしこで見られはします。 例えば草薙京は「草薙流古武術」を父であり師である草薙柴舟から学び、シリーズが進むにつれ外形上は全く違った戦闘スタイルとなっていきます。 またギース・ハワードを父とするロック・ハワードは、育ての親のテリー・ボガードの戦闘スタイルと融合した独自の創作武術の使い手です。 こう言ったキャラ同士の複合はよく見られるのですが、ちょっと特殊な例としては「デッドオアライブ」シリーズの ほのか というキャラが顕著です。 さて、この ほのかちゃんは対戦相手の技を一目で盗む天才少女という設定で、その戦闘スタイルは8割方は他キャラの技で構成されています。しかし、この ほのかちゃんのモーションを見ていて観じるのは、各技を行うたびに身体性が切り替わるように見えるのです。(ここではゲーム制作というメタ視点は無視します)


草薙流



古武術&マーシャルアーツ



そうですね、例えばこう言った例ではどうでしょう。複数流派を学ぶ難しさに各流派で特徴的な身体性を矩とし体系化されているのが一般的なのですが、これは器用な人が学ぶと見事に各流派毎に要決に準じた身体性の切り替えを行い習得が早いのです。 しかし不器用な人は他派の身体性に引きずられて習得に遠回りしてしまう。 このような話はそこかしこで耳にするのですが、こう言ったことが「全くの武術経験のない人間こそ習得が早い」と言う言説に繋がるわけです。しかし、これは研究稽古においては苦労が逆転するのもよくある話で、さらには器用型は型に囚われ融通が効かない。なんて言説にも繋がります。 つまりは不器用型は複数流派の身体性の共鳴研究において有利に働くと自身の経験から思えるのです。 例えば ほのかちゃんは器用型でロック・ハワードなどは不器用型の武術家と分類できます。


この一般的に各流派が統一した身体性を持って要決が定まっている好例として、ハワイアン八卦掌などは師の注意を全体的に体現できると歩みを進めれば自然と蹬泥歩が現れ、酔拳を組み込んで気がついたのは拳形を「月牙叉手」にすると重心が揺らぎ酔歩しやすい独特の身体観が現れたりします。 
ただ注意して頂きたいのはこの身体性の変化は鏡雲流での身体感覚についての言及であり、他流 、特に本家流派で同じであるかどうかは私自身は分かりません。この本家筋と同形の形稽古をしても傍流は内部において違うのではと思える好例として、「心形刀流(傍流)」の稽古で「鶴一足」という姿勢・脚型を学んだんですが、最近になって居合の基礎稽古で自然と「鶴一足」が現れるようになりました。 学んだ当時は説明を受けても今一つ腑に落ちなかったのですが,ハワイアン八卦掌の基本姿勢をコンパクトに畳んだものとして現れたのです。 しかし、これが「本家の心形刀流」で言及されているものとシンクロレベルで同じかは当然 判らないし、これが同一流派内でも個体差で若干 解釈は変わることも多い。 更に言えば「本家 心形刀流」に「鶴一足」が存在するかもわからない訳です。

このように形稽古を持ってしても個体差が出る(揺らぎ、ズレ)が起こってしまうのですが、例えばこのズレること自体が困難な窮屈な形もあります。 例えば私自身で言えば「民弥流(居合術)」などの基本形を稽古に組み入れていますが、かなり窮屈な矯正性の強い形と観じています。

このように、フィクションとしての創作武術と現実としての創作武術の話は地続きの問題があったりするのです。


最後にロゴスは、

今回の対話を通じて見えてきたのは、創作武術と現実の武術は垣根が薄いどころか、原理・身体性・術理の本質という点で連続しているということです。北斗神拳や波紋、草薙流古武術、ハワイアン八卦掌からフィクション系格闘ゲームのキャラクターまで、多くの例を通して、以下のような洞察が得られました。

1. 共鳴と使い分け

ロック・ハワードのように、異なる流派や技を身体内で共鳴させて統合するタイプ

ほのかのように、技ごとに身体性を切り替える使い分けタイプ

どちらも学習や稽古のプロセスに長所短所があるが、最終的には身体性の進化・統合に繋がる

2. 外形と術理の分離

外形や型を真似ることと、術理や力の流れを理解することは必ずしも一致しない

フィクション武術はしばしば外形を誇張・簡略化するが、術理の本質を抽象化して伝える役割を持つ

3. 身体性の共鳴と抽象化

ハワイアン八卦掌、心行刀流、酔拳の組み合わせで起こるように、身体感覚や術理が自然に共鳴すると、外形に縛られずとも技理は成立する

創作武術では、こうした共鳴や抽象化が視覚化され、観察者にも理解可能な形で表現される

4. 創作武術の学術的価値

表面的には派手で娯楽的だが、身体性・術理・統合の原則を抽象化して示す教材としても有効

特定流派や型の枠に縛られず、異流派の原理を比較・体認する思考実験の場として機能する


総じて、創作と現実の武術は、身体性・術理・統合の観点で互いに学び合う連続体であることが確認できました。

現実の稽古では個人差や共鳴・使い分けの悩みが現れますが、フィクション武術の抽象的・誇張的表現は、むしろその悩みを照らす灯台のような役割を果たします。


所感としては、創作武術を単なる娯楽として消費するのではなく、術理や身体性の理解を深める思考実験の素材として活用できることに改めて魅力を感じました。

現実の稽古でもフィクション武術でも、本質は同じ――身体と術理の調和を追求する営みであり、その意味で両者の境界は極めて柔軟です。


今回の考察はまさに、武術における「創造性と伝統の共演」を体現する一里塚と言えるでしょう。

」(原文ママ)


最後に、新陰流がその弟子たちによってそれぞれ分派ができた経緯を見れば分かると思えるのですが、こう言ったことは武術流派の常道です。

つまりは「伝統とは固執することでは無い」と私見を持って結びとします。

コメント

このブログの人気の投稿

「セロ弾きゴーシュ」から展開される「呪と道具」の話(栞葉るりさんに捧ぐ)

私は何者か?

『混元八卦』の込めた想い