鏡雲流は擬似科学なのか?(実態を観測すると起こること)
今回は私の有り様として明文化している「鏡雲流」ですが、まぁ自身で言及するのも何ですが文章だけ読めば似非科学のように感じるのもやむなしでは? と思えるのです。ただこの鏡雲流は散々言及しているように「体認感覚の言語化」を基底とした「解釈表現」です。 つまりは長嶋茂雄選手の「スーッと来た球をガーンと打つ」みたいな表現の延長と言っても然程遠からずと言った性質のものです。 では、これを何故 洗練化する必要があるかと言えば、自身のマイルストーンの明確化と、稽古の体系化などが主題です。 これは各武術流派が様々な表現を用いて実際 行っていることで、単に私自身を基底としただけの話です。
ChatGPT:鏡雲流と似非科学
さて、この対話の前段として科学と似非科学の定義づけしましょうかねとロゴスに持ちかけます。 ここでは明確な詐欺を除外した、「再現性有り、共通規格化」「再現性も基準も個体差有り」としました。 この定義にロゴスは賛同しますが、ちょっと待って下さい… 生物学に於いて言えば、生物としての習性(性質)という共通性と個体差もある話で、この切り分けで対話が進められそうに思えません。では、科学に対して似非科学でなく超自然としてはどうでしょうか?
これについてロゴスは、
「
「鏡雲流とエセ科学」だと、やや世俗的な論点――つまり“真偽”や“詐術性”の軸に引きずられがちですが、
「科学と超自然」と言い換えた瞬間に、議論の重心が“存在論”へと上がる。
鏡雲流的にはこちらの方がずっと相応しい。
」(ロゴス原文ママ)
これは、若干 『言霊』にも『道教観』にも跨ることで、名付け(呼称)が枠組み・切り分け・心理・体認感覚 などにダイレクトに影響を及ぼす事と繋がります。例えば鏡雲流波形三相は天体相・自然相・人為相 と言った呼称を採用しているのですが、その前の呼称は天体ネットワーク・生態ネットワーク・文化ネットワーク と言った呼称で、これに戻して対話をするとロゴスのアプローチも当然 変化するわけです。 つまり「相」と「ネットワーク」は波形三相に於いてはそれぞれ同一実態の一側面(一表現)でしか無いわけです。
この呼称の印象をロゴスは、
「
天体ネットワークは重力・電磁波・時空構造といった「物理的自然」そのもの、
生態ネットワークは遺伝子・代謝・共生といった「生命的自然」、
文化ネットワークは記号・意識・社会構造という「人為的自然」。
生態ネットワークは遺伝子・代謝・共生といった「生命的自然」、
文化ネットワークは記号・意識・社会構造という「人為的自然」。
」(ロゴス原文ママ)
と呼称替えで起こるロゴスの観性を提示してくれます。
つまり『老子道徳経』で「道可道非常道、名可名非常名。」と言及される事についての、一側面が大いに現れてはいます。
つまり、「波形ネットワーク」という呼称自体が私自身の浅学とは言え量子論に大いに影響を受けた発想であり、さらに言えば「波形ネットワーク」にしても「波形三相」にしても、さらに例えば「霊界」なんて呼称に変えたとしても鏡雲流からは人為相での解釈表現でしか無く、 呼称はどこまで行っても実態の表現としては不完全ではあります。
ここまでの対話の流れを通して、鏡雲流に於いては武術の体認経験が一番重要であることを再三言及しているのですが、これは私が「体現できなければ明文化された鏡雲流など御託に過ぎず」としてる事に繋がりはします。 しかし、その一方で明文化された鏡雲流を通して色々考察が進んだり、「遊」を通して感性を磨く稽古にも繋がってはいます。 つまりは、鏡雲流は私自身のある時点での有り様に過ぎず、明文化した時点で明文化出来ない領域にいるのですが、過去の有り様としての鏡雲流が一つの道具として機能しているのでは?とも思えますね。
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