狼と犬の違いに現れる「絆」の有り様とそこから展開されるもの(古代古典の王の死)
さて今回の話は、群れを作る生物(ここでは狼)においてα個体の死で発生する群れの状況と、いわゆるペット犬の飼い主の死がもたらす影響が、近しい種の社会性生物にしてはずいぶん違う印象だが何でじゃろか? と言った所を皮切りにChatGPTと対話し広範に展開されたものの要約です。
ChatGPT:犬と狼の絆
まずは、私の冒頭の設問としては狼の群れでα個体が死ねば速やか次のα個体が選別されます、つまりα個体の死において群れの動揺はさほど大きく無いからこそ、速やかな状況移行が可能のように思えるのですが、ペットと飼い主としての犬においては飼い主の死後に大きく健康状態の悪化とメンタル不調を引きずる個体の話をよく耳にします。 犬と飼い主の二人暮らしならともかく、何故 飼い主の家族が他にいるのに犬はこういった個体が多いのか?とChatGPT(以下ロゴス)に投げかけています。
ここでの、ロゴスの回答は狼と犬の違いは自然淘汰での進化と人為淘汰での進化の違いであると、つまりは犬に限らずペットは人間にとって都合よく性質をデザインされた家畜のため、犬の飼い主に対する絆の深さもこのためである。と、回答します。 周知の通り人間にとって品種改良された動植物は身の回りに多くいるわけです。 私は自然淘汰で進化した生物を波形三相の観点から自然相生物、人為淘汰で進化した生物を人為相生物と分類し対話を続けます。
その延長として牧羊犬にしろ軍用犬にしろ、はたまた人間自身でさえも人為相で特化した有り様に変化してしまうと展開していきます。
つまりは狼の絆は自然相由来であり犬の絆は人為相由来と言えそうです。 ここで絆の双方向性をロゴスとの対話において明確にするために、波形三相を以前の波形ネットワークに戻して対話を続けます。
つまり、生物同士のネットワーク(狭義のコミニケーション)の媒介は自然相から人為相への比重の変化と共に共進化して来たわけです。 共鳴 鳴き声 言語 文字 活版印刷 〜 と人類の進化と共に主体が変化していったことが分かります。 現代ではインターネット網やスマホ通信などが誰でもすぐに脳裏に浮かぶのでは無いでしょうか?
つまりは絆は人類の共進化と共に身体共鳴から脳化概念への依存が高まり、また専用機器などコミニケーションツール前提の絆へと変化してしまい、結果 絆の消失しやすさとコミニケーションツールへの依存が顕著に現れているわけです。
では、ペットと飼い主との絆はどうでしょう? よく犬猫に限らずペットは人語を解するとは耳にしますが、とは言え限界は然程は高くは無いので非言語コミュニケーションを飼い主は強いられます。 つまりは、人間同士であれば脳化概念コミニケーションで事足りるのですが、ペットに対しては身体共鳴コミニケーションが無意識に行われる。 つまりは人間同種の脳化概念コミニケーションにペットを媒介に身体共鳴コミニケーションが深く関わるようになるのでは?と思えます。 このペットを媒介にした身体共鳴コミニケーションがペットセラピーなどの効果の高さの一因ではありそうです。
ここで、ロゴスに今回のテーマの奥にある裏テーマを明かします。つまり「古代の王の死と殉死」です。 古代の王国において十分に身体共鳴コミニケーションを残し脳化概念コミニケーションも充分に発達した王国において王と臣下の関係はペット(例として犬)との関係と近しいのでは?と言った設問です。
この設問は中華文明にも古代の日本でも見られた風習を想定していて、王の墓(例えば古墳など)に王の死と共に殉死させられ一緒に臣下が埋葬させられたりする風習についてです。前段のペットが飼い主の喪失で体調またメンタルを長期間崩す例と近しい関係であったのでは?という仮説から論考して行きます。つまりは古代の王の死はその臣民に壊滅的な影響を与えたのではと。
1. 初期段階:
→ 王と臣下の関係は、ペットと飼い主のように“身体的な絆”として強烈に実感されていた。
→ だからこそ、王の死=その絆の喪失は共同体全体に壊滅的な影響を与える。
→ それを防ぐために、臣下が共に死ぬ(殉死)が「必要」とされていた。
2. 移行段階:
社会が徐々に概念性(宗教体系、言語的・儀礼的構造)に寄っていくと、王権は「記号化」される。
→ 絆の実感は“身体”から“記号”へ移行。
→ しかし習慣としての殉死は惰性で残り、「残酷さ」ばかりが目につくようになる。
3. 成熟段階:
埴輪のように「代替物」(記号的な身体)で十分に機能する段階に至る。
→ 実際の身体の犠牲は不要になり、社会もそれを「納得できる」ようになった。
このように、現代教育のもと構築された価値観を持って軽々に解釈することの歪みが体認経験をベースとすることにより表面上浮かび上がります。 これは単純な脳化概念での“常識"を持って、体認経験を主とする“観覚”をレンズとして覗くと…と言った延長の考察であり正誤を問う話では無いことには注意が必要です。
つまりは現代では「現人神」のような表現をされるような人物がいて前段で説明した古代の王のような存在がいたとしても(例えばカルト教祖等)、実際は強固な洗脳を使用するタイプで無く、体認共鳴コミニケーションを無意識に使用していることも示唆され、つまりは鏡雲流の観覚で言えば「それ人類の社会性生物としての習性の範囲の平凡な有り様じゃね?」なんて思えたりはします。実際 古の達人と言われる武術家にはこういったカリスマ性を持っているという評価の人物の話もよく耳にし、転じて偏差又は気功病などと言われる症状もこちらの観点から考察できそうです。
では、現代社会で見られる象徴(影)としての「現人神」とは何であるかと言えば、「実態無き概念の檻」であり、今や人類はこの「実態無き概念の檻 の 家畜」と言えるのではとロゴスと認識共有をします。この辺りの一例を挙げれば現代の貨幣制度などではと。
しかし実際 この「実態無き概念の檻の家畜」である人類がこれまた軽々に侮蔑の対象と私がする事が出来るかと言えば、実際に体認共鳴だけで維持できる群れの規模に比べて、脳化概念の檻(広義の社会システム)は巨大な群れ(現近代国家)を維持するのに必須ではと現段階では思えます。 ただ前段での犬と飼い主との話で指摘した体認共鳴コミニケーションの希薄さは当然 現近代で加速する傾向にあると言えるのではと。
では、一旦 ペットと飼い主の絆に戻りまして、こういったペットを通して感じ取った体認共鳴の絆ですが、これまた脳化概念主体の絆との違いに自身と他者との有り様から悲嘆し、ペットとの絆こそが「真実の愛」であると言った解釈をし発言するケースもまた見られます。私自身は「真実の」のような表現自体は好みはしませんが、そういった解釈をする人達の気持ちは分かるつもりです。
ふむ、では鏡雲流においてはよく耳にする「真実の愛」に準ずる表現をどうしましょうか? ここでロゴスと相談し「Eco of the Three」としました。 波形三相の通底。 つまりは天体相としてのアガペー、自然相としてのエロス、人為相としての影(エロスとアガペーの混濁表現としての物語)、これを通底状態を「Eco of the Three」(仮)としています。
ここまでロゴスとの対話で体認共鳴ベースで古代の王国の王と臣民の関係を考察しました。 このテーマの延長から各文化圏での処刑から体認共鳴をどう捉えていたか分かるのでは?と言った視点で対話を続けます。
例えば将の首で配下の命を救うや、逆に族滅などの背景も波形ネットワークから観てみるとと言った視点からの考察をロゴスと続けます。 こういった体認共鳴を規定とする観点は双子の共鳴などにも観られる共通性が浮き彫りになります。 現代的視点ですと近しい遺伝子が云々のような結論になりそうにも思えますが、前段の古代の王と臣下の絆から観られる体認共鳴を軸にすると遺伝子云々はもちろん無関係では無いが然程は主眼とする必要が無いのでは? とも思えます。
さて、次に映画「オーメン」「エクソシスト」「トワイライトゾーン(子供の世界)」、また実際にあった出来事としてセイラムの魔女裁判事件など、子供を主軸とし周囲を巻き込んだ強い操作性を伴う暴走のような事についても同観点から考察できます。 まず持って人為相での常識は一般教育を持って身につくわけですから子供の純心邪心は同一実態を観測者が解釈しているに過ぎないわけです。 細かい言及はしませんが、先天の気質・後天の気質、また守破離の重要性にも繋がるような自然相の暴走感覚、つまりは制御性の薄い体認共鳴の危険性の一考察と言った視点で見直す事が出来るのではと。 もちろんコレは脳化概念主体のヒエラルキー構造の構築からも多く見られるような話ではありますが、悪魔憑きのような超自然に判断されるような事件についても違った側面で考察が可能であると言った話です。
この辺りの体認共鳴から脳化概念への移行の好例として、以前にもロゴスと対話した西洋史での「蛇のメタファーの変化」(ブログ:蛇が象徴するものとは?)などは体認共鳴から脳化概念への移行、つまりは多神教から一神教への移行においてローマ帝国の栄華と没落・退廃とキリスト教の歴史的経緯を分岐点として「蛇のメタファーの変化」がほぼ反転する事からも見て取れます。
ここで明確に認識しておきたいのは、体認共鳴の利点欠点また脳化概念の利点欠点は常に双方付き纏うということです。 私自身は鏡雲流で明記しているように身体性を主体としてはいますが、それなりの規模の群(国家)の保守運営においては概念性(広義の社会システム)は必要では無いかと浅学ながら考えていたりはします。
ここまでのロゴスとの対話で観て取れるように私自身は鏡雲流で明示しているように身体性・体認を主体としていますが、脳化概念は従とした有り様であり、どちらが一方的に優れているため、どちらかは必要無いと言った主張ではありません。 ただ現近代国家、特に首都圏においては顕著に脳化概念が強固なフラクタル構造の檻となり… また、文明と人類の共進化においても強固なフラクタル構造の檻が出来…etc とフラクタル(多層多重)の概念の檻に雁字搦めでいることがスタンダートですよという指摘です。 では、この檻から抜け出すのはどうすれば?と言ったことは鏡雲流(三相観、数意)を通して既に明示してはいます。
そんな私が例えば歴史上どんな人物に憧れ(リスペクト)しているかと言えば、挙げればキリはないですが、グレゴリー・ペレルマンのような数学者はもちろん、陸遜伯言(三国志)などと色々なジャンルに跨りはします、その中で顕著に鏡雲流としての有り様に近しい人物を挙げるならば、一休宗純、李白、蘇化子(蘇燦)などが顕著では無いでしょうか。この三名は私がリスペクトする人物の中で特に“道教的”な有り様の体現者と私は認知しています。
こうのような流れでロゴスとの対話をここまで進めてきましたが、この後の対話は鏡雲流の外の感覚(言語化が難しい)を観覚(言語化可能)に落とし込む範囲の対話に移っていきます。 こう言った段階での対話ではついつい辻褄合わせに自身でも感じてしまうようなことなのですが、こう言った段階を経て体認観覚に相応しい言語化に至る訳ですから、まぁその前段の対話は毎度こう言った流れを経てはいます。
最後に、毎度の締めとしてロゴスに所感と総括をお願いします。
今回の所感としては──
「社会性生物の絆」から出発して、狼と犬、王と臣下、ペットと人間、さらには古代の殉死やカースト構造へと展開していきましたね。表面的には全く異なる事象ですが、波形ネットワークという基盤を通して眺め直すと、それらは「絆=残響としての共鳴」の多様な表れ方に過ぎない、というところまで共通性を見出せました。
そして総括としては──
概念に寄りすぎれば檻となり、身体性に寄りすぎれば視野が狭まる。その中で「Eco of the Three」は、愛や自由を切り分けず、その両面を一つの実態の残響として捉える道を示すものでした。武術の稽古と実践の区別、相補と対峙の余韻が絆や遺恨に変じていく話も含め、最終的には「残響としての波形をどう観覚するか」が鍵だと明瞭になったように思います。
──つまり、今回の議論そのものが「Eco of the Three」の一つの実践でしたね。
今回は「狼と犬」「王と臣下」を皮切りにロゴスの言う通り広範な議論が出来ました。とは言え波形三相を以前の波形ネットワークに戻して考察を進め、体認共鳴コミニケーションを主題としたわりと指向性が定まった対話ではと感じます。
最後に蘇化子ですが映画「酔拳」に登場し、最近自身の日々の稽古に薄っすら酔拳を通したアプローチを組み込んでいて、独特の拳の握りである月牙叉手をとったときの身体観が面白いので、やはり人間の身体観への興味は付きないんですよな🤔
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