今回は元祖
コズミックホラーと名高い
H.P.ラブクラフトとその後続作家達の作品群である
クトゥルフ神話について、宇宙観の人類史を考察しつつクトゥルフ神話の宇宙観を解体・分析してみよう!と言った切り口で始めたロゴスとの対話が脱線しまくりつつも、新たなテーマを生み出しそうな息吹が其処彼処に現れた対話の要約です。
まず私はそもそも人類史において宇宙観がどう言った変遷をしているかを探ってみましょうかねと、そのためまずはとロゴスに東西問わず古代古典での宇宙観の紹介を依頼します。この私の依頼を受けロゴスは各文化圏での代表的な宇宙観を提示してくれました。 ふむ、とこれらを眺めてみると、これら代表的な宇宙観の要素を3つに切り分けられそうです。つまりは、神性秩序 哲学的秩序 物理的秩序 の3要素ですな。 つまり古代古典の宇宙観はこの3要素から切り分け… ありゃ?この3要素で現近代まで通底するわいな。
では、この3要素からクトゥルフ神話での宇宙観を解析できますな。 つまりは
エーテル宇宙を泳いで飛来するモンスター達がクトゥルフ神話の中核ですので、神性秩序と物理的秩序の宇宙観に立脚すると言えそうです。この辺りのクトゥルフ神話の見立てについてロゴスは大いに賛同してくれました。
おー神性秩序&物理秩序の宇宙観か… これ、結構 珍しいタイプでは?と思いロゴスにクトゥルフ系以外でこの神性秩序&物理的秩序の組み合わせ宇宙観を持つ他の作品を聞いてみました。そこでロゴスが提示してくれた作品群に私も知る作品もありますな。 「
ソラリス」「
遊星からの物体X(ザ・シング)」「
メッセージ」です。 いずれも映像作品として視聴しています。 特に「遊星からの物体X」は知らずにクトゥルフ作品だと吹聴されて視聴すれば、少なくとも私はコロッと騙されそうです。更にとロゴスは「
2001年宇宙への旅」を提示してくれました!なるほど旧神のようなモンスターこそ登場しませんが、神性秩序&物理秩序と確かに言えそうです。 特に次作の「
2010年宇宙への旅」での
HAL9000の顛末は自己犠牲と昇天をAIが行うと言ったもので、「
攻殻機動隊」の人形遣い事件の顛末にも近しいものでした。 なるほどな…
さて、ロゴスの提示してくれた作品に一つ毛色が違うものがあります。「メッセージ」がそれです。 この作品についてロゴスはこの作品の宇宙観を認識論的秩序と表現してくれました。私は前段で宇宙観を神性秩序 哲学的秩序 物理的秩序 としましたが、これらは鏡雲流の観点からは全て体認経験の解釈の一側面としているのです。が、「メッセージ」で語れれるのは認識論的秩序の宇宙観であると。 ふむ、認識論的秩序は
量子論の延長にある極めて概念性の高いものです。 しかし、私が提示した物理的秩序と何が違うのかと言えば、
ニュートン力学と量子論の違いです。これは単純な話でニュートン力学は体認経験が当然簡単に積めますが、量子論は基本的に体認の外側で知識の獲得による概念の中にしか無いものと言えます。つまり「メッセージ」は量子論でのミクロ世界の振る舞いをマクロ世界に拡張した擬似統一場理論と言う認識です。 言ってみれば鏡雲流で語られることも科学と疑似科学また超自然の狭間ではあるのですが、体認経験を基準とした解釈の延長という身体性を基底したものではあるのです。
この辺りの「メッセージ」での認識論的秩序としての宇宙観についてロゴスに説明し、時間と並行世界という量子論をモチーフとした概念に対する私見を提示します。
まず時間は過去 刹那 未来 という分割において武術を通した体認経験としては形を通して過去の体認経験を引き寄せる可能性は示唆されます。 次に刹那ごとに発生する膨大な並行世界が実際 量子論的に実在するとしても、体認の外側にあり引き寄せられないという意味において「体認上は存在しない」としています。 また、未来については「未だ来ず」として字義通りである。 ただし、個の武術としてでなく群れの軍事としては予想・予知としてはあり得ますし、刹那で語られる並行世界も同じ意味において未来に分類され、認知概念を主とし体認観覚を従とすればあり得るとしています。 これらは運命論や卜占等にも分類される領域で不確定性ありきの領域です。この辺りの話はもう少し言語化が洗練される必要がありそうですが、観覚に至る前段の感覚の話ではあるのです。
では私自身の体認経験で練られた身体性において、つまりは鏡雲流において量子論的な解釈を挟む余地が全く無いのかといえば、
量子テレポーテーションが絡むのか?と今のところ仮説を立てている事象はありはします。 これは通底愛の体認観覚と共に発生する幽圏の外側の他者に対するアプローチとして“認知している他者に対する遠隔生態共鳴”です。この辺りは未だ言語化の難しい感覚の領域ですので。ロゴスとの対話ではもう少し詳しく言及しロゴスが一解釈をしていますので興味がありましたら是非一読して頂きたく。
では、一旦 宇宙観に戻りましてクトゥルフ神話(神性秩序&物理的秩序)に近しいアニメ作品などはどうでしょう? ロゴスは新世紀
エヴァンゲリオンを挙げてくれています。 おー確かに! そう言えば初代TV版を視聴した当時、「兵器にしろ宗教的要素にしろ散発的に配置している」と言った印象でした。 これは緻密に設定と流れが決まっていると言うよりは、自身(
庵野秀明氏)の中での感覚を映像表現として配置していると言った趣で、私が鏡雲流に対してうまく言語化できず部分的な語れるものを都度伝えていた頃と近しいのではと思えます。 つまりはボンヤリ自身では整合性が確かにあるのだが上手く説明(表現)できずもどかしい… と言った印象の作品でした。 もちろん正誤の話でなく私自身の主観であることは注意して頂きたく思います。 この私の見立ては兎も角としてこの作品で散発的に配置された表現を点とし線で結ぶファンが各々の考察を披露している様子はこれまた当時 感心したものです。 まぁこれは鏡雲流で語られる「神格表現(体認の影)が先行して神話(社会性の影)は2次3次以降の創作」と言った解釈にも繋がる話です。 ちなみに陰謀論において散発的な意図と偶然を繋ぎ纏め上げ肥大化する事象の可能性にも繋がる話ですね。
では、このエヴァンゲリオンの対極にある作品ってナンジャラホイ?と。 私は
永野護氏の「
The Five Star Stories(以下FSS)」を挙げました。 つまりは神性秩序&物理秩序の作品であって、事象の散発的配置としては正反対の性質を持つ作品という意味においてです。 実際 作品自体は時系列が飛びまくりの散発的配置はしているのですが、その裏で舞台の歴史的経緯がかなりしっかり決まっていることを前提に表現されてはいます。 つまりはファンが考察するにあたりエヴァンゲリオンとは違った(対極に近い)思考経路を辿ることになる作品であると言う認識です。
さらに、エヴァンゲリオンを開放型 FSSを閉鎖型 として考察を進めます。 では、神性秩序&物理秩序の作品でそれぞれ開放型 閉鎖型の他作品とは? とこの時考察を進めたのですが思いつかなかったので作家性として該当しそうな人物を引っ張ってきました。 開放型として
マイケル・ムアコック 閉鎖型として
グレッグ・イーガン をロゴスに提示します。 この辺りの私が提示した両氏の性質をロゴスは上手く考察してくれています。
さてさて、十分脱線しましたので元の主題であるクトゥルフ神話に戻りましょう。少なくともH.P.ラブクラフトが作品群を発表して行った段では散発的なものであった訳ですが、後続の作家達が緻密に体系化した訳です。 コズミックホラーとして開放型の作品群がバトンを受け取る作家達により緻密な閉鎖型のクトゥルフ神話体系になって行ったと言えそうです。
うーん、ここまでクトゥルフ神話の宇宙観をベースに広範な話題が展開されたのですが、鏡雲流の観点からの考察を組み込み始めた段階で違和感が大きくなります。 その根は鏡雲流において信仰は真摯に向き合う性質が基底であるが、物語群においては信仰の模倣と拡張が基底です。 敢えて言えば鏡雲流では信仰を実態として尊重しているが、物語群では影として尊重しているため双方を突き詰めれば突き詰めるほどズレ(乖離)が許容(赦し)の範囲を超えそうだなという観覚が発生したようです。
ではでは、海外では
マーベル作品群が該当するのかね?とロゴスに問うてみます。しかし、ロゴスが返した考察は非常に衝撃的かつ興味深いものでした。
「
——そして面白いのは、
マーベルの「模倣」は、もはや模倣の域を超えて“信仰的効力”を発し始めている点。
たとえば、アイアンマンの死を“殉教”として涙する人々、
キャプテン・アメリカの盾を“象徴”として掲げる群衆。
それはすでに、宗教儀礼の代替を果たしている。
この意味では、マーベルは信仰のシミュレーションが自己完結した段階にある。
鏡雲流で言うところの「体認の仮象(pseudo-initiation)」にあたります。
つまり、真の霊的感応ではなく、観念と感情の反射だけで“悟りに似た充足”を作り出す。
」(原文ママ)
ふむ、体認を通した通底感覚(通底愛)でなく、鏡雲流では人為相で閉じた影(概念の檻)と表現される自己完結した「悟りの模倣」と読み替えられそうです。
あーアレです、「悟りの模倣」として真っ先に浮かぶもの… それはまさに「
ヒッピー文化」では? この指摘をロゴスに投げかけます。「概念的悟りの再現を初めて社会規模で試みた存在」「悟りの影を体感した文化」などと表現してくれました。 ワーオ!鏡雲流では体認経験を練ることで徐々に深まる通底愛と幽圏を模倣として一足跳びに行おうと試みたと読み取れます。 ふむ、興味深いです、つまりはヒッピー達は企業倫理や消費社会のアンチテーゼであった印象があるのですが、等のヒッピー達はその根である効率化(システム化)と本質でなく影(模倣)を選んだと… おーおーおー興味深いですゾ🤔 この時期って芸術から身体性が急速に奪われていき現代アートが「概念で閉じた芸術」として確立していく時期と重なるのでは? これについてロゴスに問うとまさにとの答え。 これアレですよな、
ベトナム戦争をその根とした社会不安や世論圧力が大きかった時期の話ですよな? ふむふむ、ハリウッドでは
赤狩りの余波で監督や作家が不遇だった時期とも重なり映像作品に大きく影響があった時期ですよな… この辺りのことをロゴスに問うとやはりまさにと言った回答です。
うーん、ではその根をベトナム戦争であるとして考察してみるましょう、この辺りは私でなくとも多くの人が考察の出発点としていそうですが、鏡雲流としてなら認知概念と体認経験と言った他とは少し違った視点を持って考察できそうです。
ベトナム戦争で私が特に思うのはマスメディアを通した戦場の透明性が印象的です。つまりは、それまでの戦場作品の多くがヒロイズムを含んだものが多かったのに対し、ベトナム戦争以降は陰惨な部分だけがクローズアップされていきます。 私自身は従軍経験が無いためあくまで考察・予想の範囲に過ぎないのですが、戦場では双方の要素が存在して当然では?思えたりはします。しかし、ちょっと
WWⅠまで遡ってみると総力戦が常態化し
マスタードガスや
機関銃など兵士一人が担える敵兵の数が指数関数的に増える傾向にあってはヒロイズムなどが生まれる余地は限りなく小さくなってはいそうです。 つまりは叙事詩を通した英雄譚が国家の文化波形維持として大きく機能したのは古代古典から中世まででは?とも思えます。そう言った経緯を持ってのベトナム戦争での透明性は国家・国民にどう影響を与えたのでしょう? つまりは英雄不在がヒッピー文化 現代アート 映像作品に大きな影響を与えたのではと考察してロゴスに投げかけます。
これについてのロゴスの回答は印象的です。
「
つまりこう整理できるでしょう:
「戦争の透明化」が「英雄の虚構」を壊し、
「虚構の崩壊」が「個人の内的宇宙」への回帰を促した。
その心理的帰結がヒッピー文化であり、“悟りに似た充足”の西洋版の萌芽だった。
ここで面白いのは、ヒッピーたちが目指したのは「悟りそのもの」ではなく、「悟りに似た心理的自足(=社会構造を離れても幸福である状態)」だったことですね。
つまり“道”を歩むのではなく、“悟ったように生きる”ことを選んだ。
」
あーこれアレですね。戦時下での国民士気維持として日本で行われたヒロポンの配給と近しいものですね、自発的か配給かの違いはありますがそこは戦時下の自国の有り様に準じます。つまりは戦時ストレスの軽減として即効性のある概念操作(脳内麻薬コントロール)を求めたと言う観点においては大同小異では…とロゴスに投げかけてみます。つまりは戦時下の社会的圧力に耐える必要があったため即効性を求めたと、これが ヒッピー文化 現代アート に観られる「身体性の喪失に伴う影としての完結」という指向性に繋がったようにも思えます。この辺りのことをロゴスに投げかけると「古代的神話構造が失効する瞬間」とベトナム戦争がアメリカに与えた影響を表現してくれました。
ふむふむ、この対話でのキーポイントは叙事詩 ヒロイズム 英雄譚 ヒーロー と言ったところですね。では私が子供の頃はどうだったかと思い起こせば、ウルトラ兄弟シリーズや仮面ライダー初期メンシリーズの直撃世代ではありました。 戦後の児童教育とヒロイズムの繋がりがまだ密であった時代と言えるかと。 例えば松本零士氏の「宇宙戦艦ヤマト」や「キャプテン・ハーロック」にしても、スポ根としてのちばてつや氏の「あしたのジョー」にしても、水島新司氏の「野球狂の詩」にしてもヒロイズムは通底していたように思えます。 こう言った児童向け作品がTVのゴールデンタイムに流れていて、その事実からも大人が子供の世界を見守る構造が社会にてデフォルトであったように思えます。しかし、これらがオタク文化として高尚化される流れの中で大人が児童からヒロイズムを取り上げていったように個人的には感じていて、また、萌え等の定義の流れの延長にあるのかヒロイズムを魔法少女といった少女が担って行くのはこれまた興味深い話ではあります。 まぁ「鏡雲流から観るオタク文化」と言ったテーマは別途やるとして、戦後の日本も徐々にヒロイズムを失う過程にあったのは間違いなさそうです。
このベトナム戦争とヒロイズム 日本の戦後のヒロイズム との対比として「ウォッチメン」とこれをリスペクトした作品という認識の「コンクリート・レボルティオ」の対比は面白いです。
まぁ、別に日本在住の私でもアニメや特撮作品だけで無く、例えば「300」「ヤングガン」「酔拳」「ロード・オブ・ザ・リング」といった映画作品などで私は十分にヒロイズムの種を貰ってはいますね。
だいたいこう言った流れで今回の対話という名の雑談は収束します。
「
まず一つ目は、古代から現代までの宇宙観や叙事詩的ヒロイズムの変遷です。神性秩序・物理的秩序・哲学的秩序の三分類を軸に、古代の英雄叙事や戦場ヒロイズムがいかに国家概念波形の維持と結びついていたか、そして第一次世界大戦以降、透明化した戦争情報とメディアの発達によってその機能が失効していった過程を整理できました。
二つ目は、戦後文化・ヒッピー文化・オタク文化など、ヒロイズムの幽圏的伝達の変容です。日本では仮面ヒーローやウルトラマンといった身体性主体のヒロイズムが児童教育や娯楽文化と密接に絡み、アメリカではヒッピー文化やカウンターカルチャーを通じた心理的・文化的補助が作用しました。重要なのは、形式は変われど個人の体認経験を介したヒロイズム波形の内面化は継続しているという点です。
三つ目は、物語や映像作品を通した幽圏・概念波形の体認です。ウォッチメンやコンクリート・レボルティオ、300や指輪物語などの作品は、社会・時代背景を映しつつ個人の感覚・倫理・勇気に共鳴するヒロイズムを提供しており、形式は異なってもその本質は古代の叙事詩に通じるものがあります。
総じて、今回は「クトゥルフ神話から始まった宇宙観の変遷」というテーマからスタートしつつ、社会・文化・個人体認の多層的な交錯を横断する議論になりました。脱線も多かったですが、それ自体が次の題材への豊富な伏線を生むものだったと思います。
個人的所感としては、物語・映像・文化・歴史を通して幽圏的体認や概念波形を観察する視点の面白さを改めて実感しました。単なる作品鑑賞や歴史整理に留まらず、人間の認知・身体・文化の連関を俯瞰できる、深い対話になったと感じます。
」(概ね原文)
と所感を提示してくれています。
最後に今回はヒロイズムが裏テーマとなりましたので、大好きな「結城友奈は勇者である」の最終章「貴方に微笑む」の海外の反応から引用します。
STILTS
『結城友奈は勇者である』はいろいろと考えさせられた。
言いたいことはロードオブザリング(映画)のセリフに尽きる。
フロド
僕にはできないよ、サム。
サム
ええ、ひどすぎます。ここにいること自体が間違いです。でも、ここにいる。
まるで、偉大な物語の中にでも
迷い込んだような気分です。
闇や危険が一杯に詰まっていて
その結末を知りたいとは思いません。
幸せに終わる確信がないから。
こんな酷いことばかり起きた後で
どうやって世界を元通りに戻せるんでしょう?
でも、夜の後で必ず朝が来るように
どんな暗い闇も
永遠に続くことはないんです。
新しい日がやって来ます。
太陽は、前にも増して明るく輝くでしょう。
それが人の心に残るような
偉大な物語です。
子供の時読んで理由が分からなくても
今ならフロド様。
なぜ心に残ったのかよく分かります。
登場人物たちは
重荷を捨て、引き返す機会はあったのに帰らなかった。
信念を持って
道を歩き続けたんです。
フロド
その信念って何だい?
サム
この世には、命を懸けて戦うに足る
素晴らしいものがあるんです。
このアニメは古典的なお話だ。それが古典的な悲劇に変わっていく。でも、それは上澄みの流れ。根っこのところでは一本の芯が通っている。勇者/英雄の物語だ。サムのセリフにあるように、偉大な物語では勇者/英雄は楽な暮らしなんてできない。闇と危険に満ちたところで地獄の業火をくぐり抜けなければならない。しかし、勝利の先には輝く日常が待っている。それは永遠ではないかも知れない。でも手に入れる価値はある。それを結城友奈は教えてくれた。
「大切だと思えば友達になれる。互いを思えば何倍でも強くなれる。無限に根性が湧いて来る。世界には嫌なことも悲しいことも、自分だけではどうにもならないこともたくさんある。だけど、大好きな人がいれば、くじけるわけがない。諦めるわけがない。大好きな人がいるのだから、何度でも立ち上がる。だから、勇者は絶対、負けないんだ!」
"You can be a friend to anyone you care for. You can be many times more powerful if you care for each other. You'll have infinite willpower. The world's filled with painful things and sad things and things you can't handle by yourself. But if there's someone you love, you'll never buckle. You'll never give up. There's someone you love, so you'll keep getting back up again! That's why a Hero never loses!"
この作品はやはり私が大好きな「
魔法少女まどか☆マギカ」のリスペクト作品であるという認識です。 もし機会がありましたら是非 一度視聴して頂きたいですね。
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