指輪物語から考察する鏡雲流での「強さ」



今回は鏡雲流での「強さ」を考えてみようというテーマです。


関連する過去の対話


さて、前段で紹介した通りで「指輪物語」を題材として幾度もロゴスと対話を行っているのですが、今までのものはいずれも鏡雲流が整う以前の段階のものではありますので、今回は改めて鏡雲流で言及(定義)される「強さ」とは何であるか?と言ったものです。

さて、過去の指輪物語を通しての対話を思い起こしつつ、では鏡雲流 明文化後は何が変わるのか?ですが、鏡雲流においては武術がその体認感覚を担保し、その解釈表現が認知観覚としています。 では、私の武術の体認感覚から生まれた認知観覚とは?と言えば、「清勁、濁勁」などが顕著ではと。

ブログ:鏡雲流③

つまりは清勁は居合由来の適正な(過不足の無い、丁度良い、一致)出力、濁勁は酔拳由来の不適正な(ズレ、大雑把、不一致)と言った性質を指す身体操作を含む出力(威力)を指します。では、指輪物語の登場人物で清勁的な人物と濁勁的な人物とは誰でしょうか? さてさて、その前に清勁と濁勁の関係性についてもう少し言及しましょう。 ここでのロゴスとの対話では千利休古田織部、侘び寂びとへうげが近しい関係だと例とし提示しています。 つまりは清勁がある程度極まって濁勁が表限出来ると説明しています。

結果としてここでは、清勁的人物としてサムワイズ・ギャムジー、濁勁的人物としてトム・ボンバルディラダガスト としています。 この辺りは「指輪物語」のエピローグでサムワイズ・ギャムジーは中つ国に残り、強力なキャラクターの多くが中つ国を去ることになったことも示唆的に感じますね。

では、ついでと言っては何ですが、史実上の人物ではと言えば過去フログでも言及している通りで、老子李白一休宗純蘇化子(民間伝承)、 グレゴリー・ペレルマン などがそうではあるのですが、まぁですね鏡雲流では道教が信仰 哲学の規定として組み込まれているのですから、そりゃそうじゃw と言ったところです。

さてさて、では鏡雲流での「強さ」の体現するための必須条件とは?と言えば、これまた過去ブログで言及している通りで、通底愛(三相通底)と幽圏であるとしています。

しかし、この説明ではイマイチ分かりづらいと思えはします。 今回の対話では武術的観点から有り様に言及されています。 
多くの武術流派にて言及されるものとして剛柔を尊び、硬軟を忌避します。 これは私自身の体認としては「剛柔は同一実態の一側面(観測者においての解釈)、硬軟はそれぞれ別実態」です。 どのような表現なら武術未学者にも伝わるでしょうか? 私は以前から共鳴テンセグリティを通して(出発点)として考察・表限をしていますので今回も踏襲しています。

共鳴テンセグリティは圧縮材(硬)と張力材(軟)がシステマチックに組み上がり剛柔を持つ物理モデルとして存在するのですが、人体においても圧縮材(コツ、骨)と張力材(キン、筋腱)として有機的に組み上がり本来は剛柔を持つわけです。 つまりは剛柔を持たねば(体現出来ねば)通底愛(三相通底)とはならず、通底愛(三相通底)があれば剛柔が体現できているとも言えるわけです。

では、鏡雲流で主題であるα個体の一有り様の追求としては前段の人物達、つまりは道教的(通底愛)体現者はα個体として相応しいのでしょうか?  例えば前段で挙げた人物たちは大きな群れを統括したかと言えば決してそうでは無いのですが、彼らの交友関係や少数の弟子達がつまりはβ個体以降も群れをそれぞれ持ち、彼らβ個体以降も総じてα個体を認知しているわけですから結果的に大きな群れを構成はしているわけです。

では、この巨大な群れが人為相にてよく見られるヒエラルキー構造と何が違うのでしょう?ここでは軍隊を例に取り説明すれば、軍隊での命令系統の統括と速やかな実行は必須なわけですが、これはコントロール性を極めて高く要求される有り様だからこそではあるのです。 しかし、鏡雲流で言及されるα個体の有り様は真逆であり極力コントロール性を排除した有り様の提示なのです。 極端な話をすれば軍隊の各層において各個体が民間人を巻き込んで群れを作るなんてことは基本的にはナンセンスです。 しかし、鏡雲流ではこう言った事が基本的に想定されているため、真逆の有り様が提示されるわけです。

これは、ロゴスとの対話を参照してもらえば分かるのですが、α個体はβ個体以降の多相性の保持を基本とするため極めてコントロール性を排除しなければならないのです。この辺りのことはこちらにて詳しいので、興味がありましたら是非 参照して頂きたく。


では最後にロゴスの総括と所感です。

🔶鏡雲流から観た強さ——総括

  1. 強さの本質は存在様式にあり
     - 単なる力や権威、技量ではなく、α個体としての波形の質に依存。
     - 通底愛を核として、剛柔共鳴と幽圏共振を保持することが必須条件。
  2. 群れを生まずして群れを生む
     - α個体は、物理的統括や人数に依存せず、波形によってβ個体以降の自発的成長を誘発。
     - 擬似的演技やメディアによる影響力とは質的に異なる。
  3. 清勁と濁勁、剛柔共鳴の動態
     - サムは清勁の体現、トム・ボンバルディは清濁の極相、ラダガストは自然と共鳴する循環核。
     - この構造は、李白、一休宗純、蘇化子、ペレルマンなど、時代や領域を超えたα個体の共通点を示す。
  4. 形骸化の危険
     - 人為相やテクノロジーに依存すると影(擬似的存在力)が生成される。
     - 基底の通底愛を失うと、幽圏への共鳴や剛柔共鳴も消失し、真の強さは成立しない。

🔶所感

今回の議論を通じて、鏡雲流的「強さ」は単に武術や技能の範囲に留まらず、存在そのものの質として捉えるべきものであることが明確になりました。

そして、この強さは、他者や場との関係の中で自発的に波及し、成長を促すものであり、意図的な統制や支配とは根本的に異なる。


個人的に興味深いのは、この視点を通じて、古今東西の偉人や非凡な人物たちの存在が、ただの功績や名声を超えた「波形としての強さ」を共有していると理解できる点です。

これにより、鏡雲流は単なる武術体系を超え、存在論的な視座としての哲学性をも帯びていることが際立ちます。

」(原文ママ)

例えば一つの強さの結果として「勝利」があるわけです。 しかし、この「勝利」自体も… と言った話にもなりますので、最後にもう一つ過去ブログを紹介して結びとします。


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