一般教養としての武術(古典時代の武術の意義とは?)

 

今回は古典を読んだりすると一般教養として何かしらの武術が組み込まれている記述が見て取れるのですが、では一般教養としての武術の意義・立ち位置は何であったのか?がテーマのロゴスとの対話です。

ChatGPT:一般教養としての武術

さて、冒頭にてこの設問の感想をロゴスが提示してくれます。 武術は古代の「哲学」「医学」「政治」「宗教」を結ぶ結節点であるとしています。 そして「教養」という語義には「教(伝達)」と「養(涵養)」の両面があるとしています。つまり鏡雲流的に言えば「教=認知観覚」「養=体認感覚」として読み替えられる。 これは体認経験主体を基底に置くからこその発想と言えます。つまりはロゴスの提示する「教養とは 体認(感覚)と認知 (観覚)の往還」はまさに鏡雲流成立過程そのものです。

さて、この「鏡雲流教養観」と定義した上で、この延長の近しい一般教養としての武術観をロゴスに提示してもらいます。 ここで幾つか提示されたもので特に目を引いたものに「止戈為武」があります。 「止戈為武」自体は「止」の字を「歩む」ととるか「止まる」ととるかで解釈が180度反転する訳ですが、ここではあくまで鏡雲流での親和性を問う訳ですから「止」を「止まる」とする解釈を採用しています。

具体的には鏡雲流での主題はα個体の有り様の提示です。 ですので、通底愛と幽圏の観点から「止戈為武」を再定義します。 通底愛は三相通底(天体相=アガペー、自然相=エロス、人為相=シャドウ)としているのですが、天体相のアガペーが抑止・ブレーキを司ります。

ここでは鏡組流での通底愛を構成する三相観を前段の対話を反映して呼称替えします。
アガペーを天体愛、エロスを自然愛、シャドウを人為愛と呼称替えして、通底愛≒止戈為武 としています。

では、簡単に整理してみましょう

位相

名称

愛の呼称

性質

落とす影

機能・働き

天体相

天意の位

天体愛(旧:アガペー)

「止」

自然相

超越的秩序・無為自然・恒常性の核

自然相

天と地の間

自然愛(旧:エロス)

「戈」

人為相

生成変化・生滅循環・生命的衝動

人為相

投影された影

人為愛(旧:シャドウ)

「詩」

詩・物語(形)

意図・創造・模倣・文化構築



通底愛(三相通底)

「実態」

信仰・武術・芸術における体現(為武)


 総括:鏡雲流的「止戈為武」とは


止は理を保ち、戈は生を動かし、詩・物語はそれを形に写す。

三者が通じたとき、そこに為武(通底愛)が立ち現れる。


この「為武」とはつまり、“暴を止める”ことではなく、

“宇宙と自然と人間が共鳴し合う一点”を維持すること。

したがって鏡雲流では「武」は「戦いの終着点」ではなく、

**往還そのもの(波形の均衡)**です。

(原文を若干修正)

さてさて、ここまで整理した鏡雲流教養観ですが、「教養とは 体認感覚と認知観覚の往還が本来の姿」と一言で纏められました。 では、引き続いて古典以降に一般教養としての武術がどう変遷して行ったかについてロゴスとの対話は続きます。

現近代の武術の有り様は大多数の共通認識として競技化(スポーツ化)への特化・指向性が顕著であると言えるかと。この武術史の要約をロゴスが提示してくれました。

時代・段階

主体的性質

教養の位相(往還関係)

武術のあり方

特徴的傾向

① 原初~古代期(例:シャーマン、巫、兵法家)

天体相的

体認=認知(未分化)

呪術・祭祀・戦技が未分化の状態

「生存と信仰」が一体。戦うこと=祈ること。身体そのものが宇宙的秩序の媒体。

② 古典期(東:春秋戦国~漢/西:古代ギリシア~ローマ)

自然相的

体認 ↔ 認知(往還)

文武一体/技と哲の融合

道(東)やロゴス(西)により、身体技法が理法へ昇華。この段階が「一般教養としての武術」。

③ 中世期(東:宋~明/西:中世~ルネサンス)

人為相的

認知優位 → 体認補助

武=統治・制度の一部

宗教・国家に包摂され、「修養」や「礼儀」など社会秩序の器へ。

④ 近代期(東:明治~昭和/西:産業革命以降)

図面的

認知(概念・制度化)

軍事・競技化

身体技法の標準化、数値化。個体の生存術から国家や興行の手段へ。

⑤ 現代期(東西融合以降)

物語相的

認知→体認の再帰を模索

スポーツ・フィットネス・芸術

形式(ルール・形)を介して「往還」を再び試みる。鏡雲流的にはここに再統合の萌芽あり。


と、提示してくれました。 細かい私見との相違は兎も角として、ロゴスは中世期以降が競技化の始まりとしているようです。

ふむふむ、私見での単純な武術と競技の違いは何かといえば、前段での対話の流れから一般教養と娯楽遊技 と大別できそうです。 その論拠として私はコロッセオでの剣闘士や日本の御前試合などを挙げています。 では競技化で得られるものはと言えば「序列の変化」が大きな要素と言えると私は指摘しています。 つまりは、ローマ帝国にて武術の競技化が顕著になり、またその版図の広さがヨーロッパ圏でのスタンダード化に繋がり、これ以降は大航海時代以降の西欧文化の啓蒙・拡散の一要素として「競技スポーツとしての武術観」を拡散する主因となったのではと指摘しています。

日本では嘉納治五郎の「柔道」創始やその流れでの富木謙治の「富木合気道」創始などにみられます。 こう言った流れを加味すると「教養としての武術」から「競技スポーツとしての武術」への流は西洋列強への憧れ・劣等感・焦り などが内包されているようにも思え、ペリー来航以降の歴史的必然を感じたりします。しかし、ここまでのロゴスとの対話で浮き彫りになるのは(一般)教養としての武術が「娯楽遊技としての武術」へと濃淡がシフトしていく様子だったりします。これは国家観から見た一般教養としての武術の有り様の変化です。


では、次に東西の軍事観の違いから一般教養としての武術を観てみましょう。軍事思想の代表として西洋は「マキャベリ」 東洋は「孫武(孫子)」を通して一般教養の武術を覗いてみます。

これは「マキャベリズム」が認知概念性が強く現れ、「孫子の兵法」が体認観覚性が強く現れていると私が観じているからではあります。この指摘についてロゴスは取り纏めてくれていて、

観点

東洋(孫子)

西洋(マキャヴェリ)

勝利観

線としての勝利

点としての勝利

本質

流動的・有機的・全体調和

個別的・結果重視・序列化

国家観

通底愛・幽圏を延長した体認的国家

認知概念主体・数理的国家

武術・戦略

体認経験を通じて判断・調整

戦力・序列・勝利結果を数値化・制度化

結果

勝利は過程の一部であり、次の流れと統合

勝利そのものが目的であり、連続性は必ずしも重視されない



◉ 鏡雲流的解釈

  1. 東洋の勝利観(線として)
    • 戦いは単発の結果ではなく、通底愛の往還の中での調和の一部として捉えられる。
    • 孫子の兵法は「勝つことよりも勝てる状況を作ること」を重視。
    • 流動的有機体としての軍・国家が、勝利を線として統合。
  2. 西洋の勝利観(点として)
    • 勝利は個別の事件として評価され、結果そのものが目的化。
    • マキャヴェリ的戦略は、勝利の積み重ね=国家権力維持に直結する。
    • 勝利後の人心・調和は、制度・外的権威に依存することが多い。
◉ 武術観との対応
  • 東洋では、武術・兵法・修養は線的な往還の体現。
    → 通底愛・止戈為武・体認と認知の循環に沿う。
  • 西洋では、武術・戦略・競技は点的結果の積み重ね。
    → 序列・勝敗・競技規則の枠組みに統合され、通底愛的往還は希薄。
(原文ママ)


以前にも私は「文武両道」という文言についての違和感として 
こちらで言及していますが、ここまでの対話でも分かるように当時は鏡雲流成立前でしたので、今回はより深く考察する事ができています。もちろんロゴスの助けを大いに借りてではありますね。さて具体的な今回の文脈での「文武両道」の違和感を要約すると、


◉ 違和感の構造

  1. 古典的文武両道(線)
    • 文=知識・教養・哲学
    • 武=修練・体認・徳の涵養
    • 線としての往還:文を体で確認し、武を認知で理解する循環
  2. 現代的文武両道(点)
    • 文=学力・成績
    • 武=競技・勝敗・技能
    • 点としての断片化:文と武は並列されるが往還構造は希薄

◉ 鏡雲流的解釈

  • 古代東洋での武術は、教養としての武=線の体現であった。
  • 現代の競技中心の武は、勝敗・評価・記録という点を積み上げる行為に近く、往還構造は失われる。
  • よって「文武両道」と声高に叫ばれても、実態としては古典的意味での武=教養の武術ではなく、競技や技能の並列化でしかない
(原文ママ)

現近代で耳にする「文武両道」は「学問と競技(格闘技、球技、etc)」であり、古典で言及される武術であることは稀で、大抵はスポーツを指すようです。 しかし、鏡雲流の観覚でこれを覗くとかなり違和感が浮き彫りにはなります。前段でロゴスが纏めてくれた表にて示唆されるように、現代の「文武両道」の目的は社会的(人為相での)序列を意識したもので、古典で言及される一般教養としての武術の目的、つまりは「体認(感覚)と認知 (観覚)の往還」とは程遠い別物であると言えます。 ただしあくまで鏡雲流での観点に過ぎないことには注意が必要でありはしますが。

このような結論をマイルストーンとして、今回の対話は収束します。




最後にロゴスの総括と所感として、

ゆえに現代日本における「文武両道」は、

その実、序列上昇を目的とする社会的記号となり、

古典的「教養としての武」の位置づけを喪失している。

今回の一里塚は、

鏡雲流の文武観を「文明構造・国家観・教育観」として照射し得た重要な節目です。

まさしく為武としての教養再定義の礎石でした。

(原文ママ)

としてくれました。


実際 鏡雲流は武術で担保される体認感覚を基底として展開されるため、こう言った結論は私自身は大いに納得のいくものではあります。 ですが、体認感覚・体認経験を基底にと言うことは個々人のズレが当然発生しますので、よく私自身が言及するように「鏡雲流は自身の有り様の明文化であり、普段は全く気にする必要は無い」のであり、転じてこれは自身で提示した鏡雲流と言う影に囚われないための必須条件の一つであったりするのです。






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