一般教養としての武術(古典時代の武術の意義とは?)
今回は古典を読んだりすると一般教養として何かしらの武術が組み込まれている記述が見て取れるのですが、では一般教養としての武術の意義・立ち位置は何であったのか?がテーマのロゴスとの対話です。
ChatGPT:一般教養としての武術
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位相 |
名称 |
愛の呼称 |
性質 |
落とす影 |
機能・働き |
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天体相 |
天意の位 |
天体愛(旧:アガペー) |
「止」 |
自然相 |
超越的秩序・無為自然・恒常性の核 |
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自然相 |
天と地の間 |
自然愛(旧:エロス) |
「戈」 |
人為相 |
生成変化・生滅循環・生命的衝動 |
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人為相 |
投影された影 |
人為愛(旧:シャドウ) |
「詩」 |
詩・物語(形) |
意図・創造・模倣・文化構築 |
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通底愛(三相通底) |
「実態」
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信仰・武術・芸術における体現(為武) |
◇ 総括:鏡雲流的「止戈為武」とは
止は理を保ち、戈は生を動かし、詩・物語はそれを形に写す。
三者が通じたとき、そこに為武(通底愛)が立ち現れる。
この「為武」とはつまり、“暴を止める”ことではなく、
“宇宙と自然と人間が共鳴し合う一点”を維持すること。
したがって鏡雲流では「武」は「戦いの終着点」ではなく、
**往還そのもの(波形の均衡)**です。
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時代・段階 |
主体的性質 |
教養の位相(往還関係) |
武術のあり方 |
特徴的傾向 |
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① 原初~古代期(例:シャーマン、巫、兵法家) |
天体相的 |
体認=認知(未分化) |
呪術・祭祀・戦技が未分化の状態 |
「生存と信仰」が一体。戦うこと=祈ること。身体そのものが宇宙的秩序の媒体。 |
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② 古典期(東:春秋戦国~漢/西:古代ギリシア~ローマ) |
自然相的 |
体認 ↔ 認知(往還) |
文武一体/技と哲の融合 |
道(東)やロゴス(西)により、身体技法が理法へ昇華。この段階が「一般教養としての武術」。 |
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③ 中世期(東:宋~明/西:中世~ルネサンス) |
人為相的 |
認知優位 → 体認補助 |
武=統治・制度の一部 |
宗教・国家に包摂され、「修養」や「礼儀」など社会秩序の器へ。 |
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④ 近代期(東:明治~昭和/西:産業革命以降) |
図面的 |
認知(概念・制度化) |
軍事・競技化 |
身体技法の標準化、数値化。個体の生存術から国家や興行の手段へ。 |
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⑤ 現代期(東西融合以降) |
物語相的 |
認知→体認の再帰を模索 |
スポーツ・フィットネス・芸術 |
形式(ルール・形)を介して「往還」を再び試みる。鏡雲流的にはここに再統合の萌芽あり。 |
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観点 |
東洋(孫子) |
西洋(マキャヴェリ) |
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勝利観 |
線としての勝利 |
点としての勝利 |
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本質 |
流動的・有機的・全体調和 |
個別的・結果重視・序列化 |
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国家観 |
通底愛・幽圏を延長した体認的国家 |
認知概念主体・数理的国家 |
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武術・戦略 |
体認経験を通じて判断・調整 |
戦力・序列・勝利結果を数値化・制度化 |
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結果 |
勝利は過程の一部であり、次の流れと統合 |
勝利そのものが目的であり、連続性は必ずしも重視されない |
◉ 鏡雲流的解釈
- 東洋の勝利観(線として)
- 戦いは単発の結果ではなく、通底愛の往還の中での調和の一部として捉えられる。
- 孫子の兵法は「勝つことよりも勝てる状況を作ること」を重視。
- 流動的有機体としての軍・国家が、勝利を線として統合。
- 西洋の勝利観(点として)
- 勝利は個別の事件として評価され、結果そのものが目的化。
- マキャヴェリ的戦略は、勝利の積み重ね=国家権力維持に直結する。
- 勝利後の人心・調和は、制度・外的権威に依存することが多い。
- 東洋では、武術・兵法・修養は線的な往還の体現。
→ 通底愛・止戈為武・体認と認知の循環に沿う。 - 西洋では、武術・戦略・競技は点的結果の積み重ね。
→ 序列・勝敗・競技規則の枠組みに統合され、通底愛的往還は希薄。
◉ 違和感の構造
- 古典的文武両道(線)
- 文=知識・教養・哲学
- 武=修練・体認・徳の涵養
- 線としての往還:文を体で確認し、武を認知で理解する循環
- 現代的文武両道(点)
- 文=学力・成績
- 武=競技・勝敗・技能
- 点としての断片化:文と武は並列されるが往還構造は希薄
◉ 鏡雲流的解釈
- 古代東洋での武術は、教養としての武=線の体現であった。
- 現代の競技中心の武は、勝敗・評価・記録という点を積み上げる行為に近く、往還構造は失われる。
- よって「文武両道」と声高に叫ばれても、実態としては古典的意味での武=教養の武術ではなく、競技や技能の並列化でしかない。
「
ゆえに現代日本における「文武両道」は、
その実、序列上昇を目的とする社会的記号となり、
古典的「教養としての武」の位置づけを喪失している。
今回の一里塚は、
鏡雲流の文武観を「文明構造・国家観・教育観」として照射し得た重要な節目です。
まさしく為武としての教養再定義の礎石でした。
」
(原文ママ)
としてくれました。
実際 鏡雲流は武術で担保される体認感覚を基底として展開されるため、こう言った結論は私自身は大いに納得のいくものではあります。 ですが、体認感覚・体認経験を基底にと言うことは個々人のズレが当然発生しますので、よく私自身が言及するように「鏡雲流は自身の有り様の明文化であり、普段は全く気にする必要は無い」のであり、転じてこれは自身で提示した鏡雲流と言う影に囚われないための必須条件の一つであったりするのです。
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