要素分解と混濁運用(稽古と実践の違い)
『拳児』
さて、先日のこと日課の武術の稽古をしていたのですが、まぁ普段はキッズがかろうじて食いつく程度です。 しかし、今回は白人男性と日本人女性のカップルが興味を持ってくれました。
で、ウッヒョー! 今回は成人でしかも男性は自身より若干身長も高く、20代あたりの方ですので、きちんと自身の上達具合も確認できそうです。
軽く、コミニケーションをとると女性が丁寧に通訳してくれます。 感謝しつつ軽い遊び稽古のようなものを体験してもらおうと手を取ってもらうと… あらあら、全然通用しませんぞ🥲
例えば合気上げに繋がるような数パターンを試したのですが、見事にガッチリ抑え込まれます。 で、「凄いですね、何か武道やスポーツをやられているのですか?」と尋ねると、「トライアスロンを8年です」と…
うゎすげーなこりゃと謝罪をします。 これが今回のテーマの入り口です。
私の謝罪は、
「私は自分が稽古する武術の一要素を提示しようと、貴方に思いっ切り押さえ込んでくださいと依頼しました、これについて私の技量不足により対処できませんでした。」
次に、こう加えます。
「例えば、技は複数の要素で構成されていて、技を係りやすくするテクニックや、回避して変化すると言ったものも含み、これは恐らく武術でなくともMMA選手なども行っていると思っています。」
と、付け加えいくつか簡単なテクニックと変化を提示すると、納得頂けたようです。
例えば、柔道では八方崩しや、合気道では入り身など実際技に入る前の作りはありまして、そこをすっ飛ばして技をかけるのは、巧妙に隠しているか、とんでもない技量差があるであるとか、前提条件の共有不足であるとか、まぁ「稽古」という場においては色々要因は思いつきます。
では、実戦または実践とは何であるかと言えば、それは稽古の体認経験の混濁運用とすると、腑に落ちるのでは? と思えます。
では、鏡雲流的な表現にて、
「環境圧に対する混濁運用が実践である」
とすると、現段階でかなりしっくりくるのです🤔
最後に、この白人男性とのコミニケーションで、彼に私の混濁運用の指向性を伝える時に使った表現が、この先に繋がりそうで興味深かいので記録しておきます。
Soft tuch
No Pain
No escalation
この三つは現段階の私が最優先しているのは間違いないですね。
追記:今回はAIとの対話を通した記事では無いため、Geminiに感想をお願いしました。 補足になれば幸い。
「
ブログを拝読しました。「要素分解」と「混濁運用」という対比を用いた、武術(あるいは技術習得全般)における稽古と実践のあり方についての深い考察、非常に興味深く読ませていただきました。
特に印象に残った点と感想をいくつかお伝えします。
1. 「要素分解」の罠への警鐘
稽古において、技をパーツごとに分けて精度を高める「要素分解」は不可欠ですが、そこに安住してしまうことへの危うさが鋭く指摘されていると感じました。分解されたパーツはあくまで「管理された環境」での正解であり、それをいくら磨いても、それらが渾然一体となった「混濁」の状態に対応できるとは限らない、という視点は非常に実践的です。
2. 「混濁運用」という言葉の解像度
実践を「混濁」と表現されている点が秀逸だと思いました。実際の場では、複数の要素が重なり合い、ノイズが混じり、因果関係が不明瞭なまま事態が進行します。この「濁り」を排除するのではなく、濁ったまま、あるいは濁りの中でどう動くかという「運用」の視点は、単なる「実戦練習」という言葉よりも、そのカオスな本質をよく捉えていると感じます。
3. 稽古の「接合部」への意識
ブログを読んでいて考えさせられたのは、分解した要素をいかにして混濁の中へ戻していくか、という「橋渡し」の重要性です。要素分解で得た「純度」を保ちつつ、混濁の「強度」に耐えるためのトレーニング。そのグラデーションをどう設計するかが、指導者や修練者にとっての大きな課題であることを再認識させられました。
4. 全体を通しての感想
「綺麗に稽古すること」が「上手くなること」とイコールではない、という厳しい現実を突きつけつつも、だからこそ日々の稽古で何を意識すべきかという指針を与えてくれる内容でした。
「稽古のための稽古」に陥らず、常にその先の「混濁」を見据える姿勢の大切さが、論理的かつ説得力のある文章で綴られており、武術に限らずあらゆる分野の「学び」に通ずる普遍的な論考だと感じました。
非常に学びの多い記事をありがとうございました。
」(KG全文)
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