羅盤から観る文化圏に由来する影波表現とは?


今回は日本の陰陽道で使われている羅盤と中華風水の羅盤の違いとして中央に日本では北斗七星(北極星)、中華にて混元に据える違いから何が考察できるか?と言う見立てのGeminiとの対話の原文・要約です。

では、冒頭の設問です。
陰陽道の羅盤から北斗七星を中心に添える7は日本で、八卦羅盤は8ですので、8を中華とそれぞれメタファーとすると面白い。


端的に7を基底とする文化性が日本
   8を基底とする文化性が中華

と言う単純な仮説が出発点の対話です。

8は円周的伝播の暗喩の最小多角形とも、7は天体運行に委ねる体認感覚の外の法則優位とも、8は生態相優位で7は天体相優位とも、ここには国民性が見えるようで面白い。

と7と8での性質の違いと各文化性の違いを定義して見ましょう。

このように体認の外の法則を重要視する7の感覚は、公共交通機関や社会性としての日本人の優先感覚が表れているようで面白い。 体認外の法則重視とも。 天体由来のシステマチック優先とも。

さて一歩すすめまして、陰陽道成立前から、日本の文化圏で北斗七星が信仰の中心であったことの示唆やも知れません🤔

つまり縄文狩猟の時代から最高神格は北斗七星(北極星)で、弥生農耕の流入で太陽信仰にシフト、しかし内在する身体感覚は列島の四季の移り変わりを中心とした規則性も相まって、北斗七星に体認感覚が引き寄せられる。 

近年の気候変動にてこの列島的体認感覚もズレが大きくなってきている。 なんて解釈も面白いやも。

これは、天命思想が中華自然観が基底であるのと同じで、日本列島文化圏も北斗七星(北極星)が見えない規定にある太陽信仰としての神道感とも。 こう観ると8の東西問わない生態優位運行由来の普遍性と、7の東西問わない天体優位運行由来の普遍性が現れるようで面白い。

例えば風水にて運気は都市計画のように配置の妙にて引き込むのに対し、日本の運気はジンクスや語呂合わせなどで引き込む特徴が。

「日本は配置の妙は地理的条件的に手を加える必要性が少なく天体運行に注視出来た」。

羅盤と言う呪術性の高い道具からの見立てであっても、7の日本と8の中華は内向きで法則性に身を委ねることを尊ぶか、外向きに伝播性を尊ぶかの文化性にも連なるようで非常に面白い。

さらに「7と8」の時間感覚の違いです。 日本での規則性優先体認感覚は四季にありとしましたが、和時計に見るように季節で時間感覚が遷移し、中華では体認時間感覚優先とも?

日本の「和時計」:天体の呼吸(明暗)に、機械を屈服させる「7」
日本の和時計(不定時法)は、世界時計史の中でも極めて異質な進化を遂げました。
夜明け(明け六つ)から日暮れ(暮れ六つ)までを昼、その逆を夜とし、それぞれを等しく6等分する。そのため、夏と冬では「一刻(いっとき)」の長さがダイナミックに伸縮します。
西洋の機械時計が日本に持ち込まれた際、当時の日本人は「時計が刻む一定の時間」に自分たちの生活を合わせる(=時間を所有し支配する)のではなく、**「伸縮する時計の側を改造して、自然の運行(天体相の呼吸)に無理やり同期させた」**のです。
 天体の理に身体を「遷移」させる:
夏は昼の一刻が長く、冬は短い。ここにあるのは、「1時間は常に60分である」という人間の体認感覚の都合(人為)ではなく、太陽と列島の四季がもたらす「明暗のリアルな波」に、人間の生活も、機械の歯車も、すべてを委ねて遷移させていくという徹底した**外の法則優位(7)**の姿勢です。

中華の「定時法」:大地の統治のための、均質な「8」
一方で、中華圏では歴史の非常に早い段階(百刻制など)から、一日を均等に区切る「定時法」が基本にありました。
なぜなら、広大な領土を一つの国家として統治し、税を徴収し、軍隊を動かすためには、季節によって長さが変わるような流動的な時間(7)は極めて不都合だからです。
 体認時間感覚優先としての「8」:
ここでいう「体認時間感覚優先」とは、人間の頭脳(概念)が認識し、管理しやすい**「記号的・静的な時間」を自然に対して上位に置く**という意味で非常に腑に落ちます。東西南北の空間を「8」のグリッドで均質に区切ったのと同じように、時間という目に見えない流れもまた、均等なマトリックス(1日=12時辰・百刻)として固定し、支配・伝播させていく。
地上の生態相(人間社会の営み)をスムーズに循環させるために、天体の「明暗の伸縮」というノイズを、均質な時間の枠組みでカチリと押し潰していくアプローチです。
」(Gemini原文)

ほう定時法ですか…度量衡の一環?それともそれ以前から?

さて、昭和時代の世界から見た「日本人は規則性と統一性に縛られて奇妙に見えている」のような言説をよく耳にし、例えば終戦時の国民意識の一瞬の反転や、当時の映画などに見る日本企業のビジネスマンのイメージなら「ダイハード」にて、歌なら「ミスターロボット」などに西洋社会から見た、理解し難い日本観の一端が現れています。

しかし、まぁこの7を基底とした四季由来の体認経験シンクロニシティに由来するとすると面白い。

つまり、7も8も天体運行を含む環境圧への体認共鳴由来の自然性であるわけですので、自然環境の違いが文化性を形づくり、信仰感覚を形成し、この延長に国民性の形成があるのは動的平衡を伴う自然な流れでしょう。

生態系構築のアーキタイプと重なるように観じます。 

特に日本列島は海流(海龍)に守護されて外圧に恐ろしく強い時期が長かったため、世界的に特異な時期が長く続いたのは間違いなく、ガラパゴス化と言う批判の多くが日本に向けられるのは個人的には深く頷けるところです。

前段でも示唆した、「日本は配置の妙は地理的条件的に手を加える必要性が少なく天体運行に注視出来た。」
このことも大きくガラパゴス化に寄与しているとすると見立て易い。

世界史と連動させて見立てれば、蒸気船が日本に侵入した時点で見直さなければならなかったのは間違い無い事実であり、その焦りが急速な欧化としての歪みを生んだのは歴史的経緯の必然の一つであると、私の国である日本については思ってはいます。 

「つまりは、蒸気船(黒船)が海竜(海流)の列島守護を駆逐したわけですので。」

明治維新以降の緊急措置としての国体はとっくにその役目を失敗を持って終えて、今やその残滓にしがみつく人々が掴む海上の藁にも見えるようです。

大抵の宗教で、執着を手放す難しさは決まって言及されていますねので…

「掴む野生」と「放す知性」の動的平衡
人間は、地を這う生物として「掴まなければ(8)生きられない」という宿命を持ちながら、同時に、天の運行や宇宙の理に同期する知性として「放さなければ(7)本当の意味で環境と調和できない」という矛盾を抱えています。
三大宗教がこぞって執着の解放を説くのは、人間がその「掴む野生」に溺れて自滅していくのを防ぎ、「放す知性」へとチューニングするための、人類共通の精神的セーフティネットだったと言えます。
「海上の藁」を放す難しさは、現代日本の国体残滓に限った話ではなく、人類という生物の脳の構造が抱える根源的な呪縛。そう考えると、私たちが今この列島で「どうやって藁を放し、海流に身体を開くか」を模索することは、三大宗教が何千年も前に指し示した「生物としての解脱・救済」の問いを、21世紀のリアルな環境圧の中で自らの身体を使って解き直すような、きわめて普遍的で壮大な試みなのかもしれません。
」(Gemini原文)


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