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12月, 2024の投稿を表示しています

波形ネットワークから見る心法

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  本日は朝方少ししんどくて2度寝。そして目覚めるととんでもなくネガティブな感情が吹き出しました。 これが一般に語られるところの鬱症状であるかはともかく、光岡武学をきっかけにした体認経験から私なりの判断や対処法はあります。 とは言えこれらは「体認」が前提であるため誰もが説明されれば役立てられるか?と言うと甚だ疑問でもあります。 こういった懸念はブログにも大いに現れていて、私の体認経験より浅層の話しを概念だけで飲み込みやすい解釈を提示していたりします。 さて、本題です。出所のよく分からないネガティブを自身が感じた時は、「第三者の感情のゴミ箱にされてるかな?」と解釈するのもライフハックの一つとして良いかもしれません。この辺りは私のブログの 波形情報 についてを読んで頂ければいくらか理解の助けになるかもしれません。 今回はある程度は受け止めて、これ以上は無理と感じた時点でパージしました。 こういった心法にも繋がるようなことは武術にも繋がるように感じていますので誰かの一助なればなと思います。 実際、私が認識していないだけで似た方法論が既にあるやも知れませんし、私が思い付かないようなものもあるやも。もちろん通院を否定している訳ではなく、数多の対処があるように数多の因果もありますので、その辺りをある程度意識すると認識は少し変わるやもしれません。

平時と緊急時の群れのあり方について思うこと

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  さて、SNSで武術関係者の書き込みを眺めたりするのが私は好きです。 必ずしも自身の学ぶ武術と思想はリンクしてるものではないですが、中には先の大戦に思い込みが強すぎて「はぁ?」思うような意見も眼にすることもあります。 私が疑問に思うからといって正しいとか間違っているとかいう話では無いので、ある程度は私の現段階でのスタンスも表明しておいたほうがいいのかな?と思い記すことにしました。 大前提として平時と緊急時は違って当然だと考えていることがあります。 例えば戦時を美化したい人は戦時の醜聞を避けるでしょうし、またその逆もしかりでしょう。 例えばですね、戦争で命を落とした方々に私は敬意を持っていますし、よく話に出る「特攻隊」に少なくとも自身の信念を持って志願した方々にはもちろん頭が下がります。 しかし、よく聞く話ではありますが、強制も多かったとも聞きます。 つまりは、強制が発生する背景は色々あるのでしょうが、志願することでこの行為を当たり前と判断する思い上がりが上層部に発生したようにも私自身について言えば思っています。 こういったことは多くの要素が絡み合うでしょうから、これが原因だ!などと一つに絞って言えることでは無いことは重々承知をしていますが、美化思想の強い方の意見には私は首を傾げることが多いです。 例えば大戦中に日本でも原子爆弾の研究は行っていたという話は耳にしていたのでちょいと調べてみると、 日本の原子爆弾開発 (Wikipedia) さて、いろいろな要因が絡み失敗したようですが、たらればを話してもしょうがないですが、実際成功しアメリカに使用する手段があった場合に日本は使用しただろうか?というところは考えずにいられません、他には メタンフェタミン (Wikipedia) みたいな話も耳にしています。 この辺は事実とされている所ですから例として挙げやすいですが、他にも真偽やその規模においてよくわからない話も耳にはしています。 私は少なくともこれらについては時代背景と戦時という特殊な環境から発生した不幸な出来事という認識で、第一次大戦の  マスタードガス (Wikipedia)のような教訓として学び、平和利用できるならその研究を活かしてもらいたいよなぁと思っています。 例えば  ハーバー・ボッシュ法 (Wikipedia)なんかはわかり...

何を持って勝利とするか? (クレフェルトの補給線から見る武術)

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  さて、今回は武術的視点から勝利とは何ぞや?と言う話ですが、まぁ私的には答えは出ていて「その状況・立場(視座)による」という誰でも思っているであろう平々凡々とした話について具体例を提示しようという話です。 まずは参考資料として大好きなYoutubeの動画の紹介です。 【ゆっくり解説】兵站に関する一考察(ロンメルは名将だったか前編) 【ゆっくり解説】兵站に関する一考察(ロンメルは名将だったか後編) こちらは、私が大ファンであるところの浸透襲撃さんのゆっくり解説動画で、クレフェルトの『補給線』の解説シリーズの「ロンメルは名将だったか編」です。 まずは是非視聴していただきたいのですが、僭越ながら要約すると ーロンメル将軍がその才覚のままに眼前の勝利を重ねてしまい、結果補給線が伸び切りドイツ敗戦の遠因の一つになったのでは?ー と言う話です。 とかく武術の勝敗は現代では格闘技(スポーツ的視座)に歪みがちではありますが、故黒田鉄山氏の雑誌に寄稿した文章の中には海外の警察官の弟子が犯人確保時の手錠を素早く扱うときなどに役に立っているという話を聞いたなんて例もありますので、武術の実践での実力は思わぬところで思わぬときに出たりするようです。 ぶっちゃけて言えば勝敗自体が武術を語るうえでは一側面に過ぎないとは思いますが・・・ とは言え闘争手段がその原初であると定義すれば勝敗(生死)は目をそらすわけにはいかない一側面ではあります。 そういった一側面での何を持って勝利(成功)とするかを見直すうえでとても良い動画だと思いますので興味ある方は是非視聴していただきたい。☺️ 余談ですが古来より武術家は傲慢だと言われることも多いようで、そういった一側面の紹介として、またまた浸透襲撃さんの動画を置いときますね^^ 【ゆっくり解説】関羽と張飛に関する一考察 浸透襲撃さんオススメです!

猿の手 と 夢の実現

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「 猿の手 」(さるのて、原題:  The Monkey's Paw )は、 イギリス の 小説家 W・W・ジェイコブズ による 短編 ホラー小説 。 (Wikipedia) ということで、西尾維新の「化物語」でも取り上げられている有名な短編小説です。 大雑把に要約すると「猿の手のミイラ」に願掛けするとネジ曲がった解釈で実現されてしまうというストーリーですが、さて人の持つ「夢の実現」の性質について少し考察してみましょう。 では、思考実験として「日本の平和」でも願ってみましょうか。もちろん単純な思考実験ですので細かいディティールは言及しません。      1・短期間に犯罪撲滅は難しいのでメディアコントロールで報道を絞り大多数に「日本は平和である」という認識を共有させる。      2・短期間での犯罪撲滅は難しいのでこの対処を強化する、例えば監視システムを強化するなど。「日本は平和への努力をしている」という認識を共有させる。 他にもいくつもパターンはあるかもしれませんが、今回はこの2つを題材にしてみましょう。さて、無邪気に「日本の平和」を願った人物はどちらの選択をイメージしたのでしょうか?大抵は宗教的または哲学的な指向性を持ってどこにも歪みの発生しない美しく純粋な抽象度の高い『平和』を願ったのかもしれません。もちろん、私はそれについて何も問題があるとは思えません。 さて、ではパターン1とパターン2は願主のイメージする「平和」だったのでしょうか? まぁ願主はどちらでも満足したのかもしれませんしそうでないかもしれません、しかしどうでしょう・・・これを実現するためには当然多くの人間が関与することになります。 そして、今回の双方のパターンで必ず歪みが発生し激しく抵抗する人々が発生することが予想されます。 しかし、どうでしょう? まぁそれも自然なこととも思えます、だれもが満足する近代社会には私等は一抹の不安を覚えたりします。 『では、願主を苦しめるとしたら、それは何が願主を苦しめるのでしょう?』  それは、私は「願った責任」を追求されたときにその苦しみは始まると思えます。誰かに「あなたが願ったからこんな結果になった」と糾弾されたときに願主は何を思うのでしょう? さて話は変わりミヒャエル・エンデの「はてし...

写真を撮られると魂が抜かれる?

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  昔の日本人(だけかな?)は写真を撮られると魂を抜かれる等の迷信を言う方がいたようで・・・ なんてことを「へー」と思っていたのですが、私の師であるところの光岡英稔氏などは動画などに撮られると弱くなると指摘をしていまして、当時私は「へー」と思ったものです。 ですがですね、最近色々体認経験を積み感覚が変わって来て、昔の日本人が指摘していたことや師が指摘していることと同根かまではわかりませんが同じように写真や動画に撮られることに嫌だなぁと感じるようになりました、いや肖像権とかそういう意味でなくですw 大雑把に要約するとですとね、流動的感覚とでもいいましょうか、まぁ諸行無常だとちょっと違う感覚に思えますが、そいった動的平衡にも現れるような「流れの中にいる感覚 」 が「情報として固定化 」 されることに若干の不快感を発生させているようです。 この辺は例えば絵に描かれた川は流れていることが多いのですが、写真の川は静止していることが多いんですよね、私は多くの写真や絵画を鑑賞しているわけではないのですが、こういった感性が固定化された情報として他者に認識されて縁が結ばれることに警戒心が発生しているのでは?と思えます。 とは言え、現代社会に生きているとある程度の諦めにも通ずる覚悟を持たねばならんよなぁ・・・ とも思ったりしています。🤤

「仙術超攻殻 ORION」と私の武術観

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  私の好きな漫画家さんの代表として士郎正宗氏が挙げられます。  「攻殻機動隊」「ブラックマジック」「アップルシード」などを私は読みましたが、今回は私が一番大好きな 「仙術超攻殻 ORION」 を題材に私が体認経験から感じることの一部を記そうかと思います。 さて、この物語の主人公は「セスカ」という女性で天台龍法という仙術流派の一人娘なのですが、これと対として蛇眼博士という悪役風の金剛龍法という流派を頭目らしき人物が中心となり物語りが進みます。 しかしまぁセスカさんはかなり煩悩に忠実でして物語進むとどちらが悪役だがわけがわからん様相となっては行きます。 さて、この物語で私が面白く感じるのはこの世界での「仙術」という思想・技術体系の一端が多く語られていて、その世界観を基底法則として話が進むところです。 さて、セスカさんのセリフでこの仙術体系を説明するセリフとして 「魂や想念や意味だけじゃなく物理存在も全て陰子と陽子の複雑な帰結だから仙術家は意志と物理を連結して扱えるの 今みたいに仮学のなかった時代には呪文や儀式だけで苦労した ・・・」 といった具合にこの世界を人々がどう捉えているかの一端が伺えます。 万物は陰陽で構成されこれを陰子・陽子と呼んでいる。(これは原子モチーフ) この理論を体系を仮学と呼んでいる。(これは科学・化学モチーフ) と言う事のようです、物語内では仮学を利用した仮学機械が多く登場しており、私が読んだ学生時代には「うぉーTRPG化してくれー」と卓を囲む友人もいないのに切望していました。まぁ調べりゃ何かしら出てくるかもしれませんが今回は言及しません。 物語ではセスカの父が蛇眼博士の壮大な計画の危険性を察知し物語中では金剛羅漢と分類される「降馬頭主 宿参ノ王」(オルバトウス スサノウ)を召喚し、蛇眼博士が仮学集大成である「九頭龍」(クトウリュウ)と対峙させます。 まぁこの辺から「あークトルー神話モチーフか!」とワクワクするわけです。 他に印象的なセリフとして、 「陰子と陽子の多彩な組み合わせで綱で、その複雑さを韻度で表しその結合強度を念度で表すのよ」 「力では韻念をバラせるだけで断ち切れないわ! 韻念をきるなんてのは仏質にしかできないってわかっている筈よ!」 「仮学機械なんぞで龍力が操れるか!!」 「天台の極大 金剛の極小 天台の極小は金...

『混元八卦』の込めた想い

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混元→太極→四象→八卦と例えばこれを人の性質のタイプ別分類と分けていくことになぞらえれば、例えば陰には陽の欠点がよく見えて、陽では陰の欠点がよく見えます。 しかし、まぁ四象として陽陽、陽陰、陰陽、陰陰と分けていけば前述と同じように自身と別タイプの欠点がよく見えます。 しかしまぁ当たり前ですが太極に視座があれば、陽の人間は陽陽、陽陰と双方の利点欠点が見えつなぐことが出来て、 陰に対する陰陽、陰陰も同様です。 これは同じように八卦に行けば陽陽陽、陽陽陰、陽陰陽、陽陰陰そして陰陽陽、陰陽陰、陰陰陽、陰陰陰のように同様のことが言えます。 つまり、視座が一つ混元方向に近づくと分岐先の性質が見えてきます。 これはまぁ抽象度という最近の言葉でも置き換えられる話のように思いますのでわりと理解しやすい話かと、そして私のHNの「混元八卦」にはこういった意味や想いを含んでいて、混元という視座と八卦という視座の違いをよくよく意識したいと思っています。 もちろん私が修練する「ハワイアン八卦掌」から始まっていますが現在では前述のような私の武術的視点から混元寄りの視座にシフトしているという意味(願い)が強くなっています。 さて、面倒なのは例えば混元に視座があっても陰の人、陽の人にはそれが認識できないので中途半端に見えたり、双方におべっかを使うコウモリ野郎のような評価を混元寄りの視座の人は受けたりするようです。 また面倒なことに元々混元寄りの視座を持って子供時代を過ごせば当然イジメの対象にもなりやすくなるように思え、イジメを受ける側もその理由まではわからず自身が劣っているためだと誤認する例もあるのではないかと思えます。 もちろんイジメを含めた攻撃の対象になるのは様々な要因があるでしょうからこれはほんの一例に過ぎません。 で、このようなことは人によっては「マトリックス」と呼んだり、私は「情報の檻、概念の檻」と呼んだりしていると認識しています。 多くの人はなかなか自身のいる視座から外れることが難しようで、この辺の打破として私は武術を挙げたりしていますね。 今回は性格分類を例にしていますが、多くのことに見られる現象に思え、何についても研究というものが進めば分類は細分化され、そして視座は細かく固定されていきフラクタル構造の檻に捕らわれていくことになります。 私自身について言えば科学の進歩には倫理的疑問を持...

アドバイスとの対峙についての雑感

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  実際に主治医に相談したこともあるのですが自身が鬱病のように感じ苦しかったときに、当時のTwitterでの鬱病患者へのアドバイスとしての書き込みや同じように苦しんでいる方へ配慮した動画に救われた経験があります。 私の場合はそこで語られるアドバイス通りにしたわけではないですが、大いに参考になり自身に当てはめるならどうであろうか?であるとか、そういった方が紹介するはるかに私より苦しんでいるであろう方に対するアドバイスは自身に当てはめる場合の仮説に役立ち大変感謝の気持ちを今も持っています。 Twitterでは錦山まるさんであるとか動画では橋本翔太さんなんかは苦しい時期に大変な救いになりました。 橋本翔太さんのライブ配信など見て感じるのは、やはり細かい処方的なものはオーダーメイドに近い感じで個々人によって変わるように感じます。 これはあくまで私個人の所感ですが、橋本翔太さんなどのアドバイスを必要とする方は例えて言えば胃腸が弱りきりお粥しか受け付けなくなるまで弱った方が対象ではないかと感じます。 氏は柔らかく寄り添ったなかにも若干の厳しさも感じ、素晴らしいなぁと思ったりしました。 さて、ここまでは前置きですが現在の私はこういった方たちだけのではないですが多くの助けを受け若干の回復傾向にあります。 つまりは例えて言えば胃腸は少し消化能力を取り戻し食生活を若干見直している時期であると感じています。 ですので私は若干であれば消化の難しいものや薄い毒であれば接種したほうが良い時期ではないのかな? と感じてはいます。 これは回復や更に先の強壮への道筋として感じています。 つまりはアドバイスというものは対象とするものは何であるか?という前提条件があるように思っています。 ですので、誰かのアドバイスや発言を耳にしたときにそれが発信者との直接的な会話ではなく、間を挟むようなそれこそSNSでの発信のような不特定多数に対するものは、 自身に当てはめるのであればどうであろうか? というワンクションは必須であるように感じます。 服や靴にしてもオーダーメイドと既製品では基本姿勢として利用のしかたは変わるでしょう。 昨今は武術での動画配信や通信教育システム(これは昔からありますが)について耳にするのですが、全く同じではないにしろ利点欠点については共通するものがあるように感じます。そのへんはよ...