何故、鏡雲流にて武術が自然科学に繋がるのか?(身体観進化論・二層生態系論)
このブログ内のみでお馴染みの鏡雲流三相学ですが、これは武術の研究と上達を目的として纏めそして明文化していったものです。 前段に光岡武学がベースにあるゆえ体認経験・体認観覚を主体としているのですが、この光岡武学に限らずシナジェティクス等と先人の知恵のいいとこ取りのように思われてもこれはしゃーなしで、実際のところ私がオリジナルで開発したものは何一つ無いのです。では全くのオリジナル性がないかと言えば正にこの組み合わせの妙は私自身の有り様そのものであり、転じて甲野善紀氏の言及する「一人一流派」という有り様にも連なりあます。
私自身は「これこそ、温故知新じゃーい😤」と思っていますが、「俺って異端?🤨(暗黒微笑)」てな気持ちが全くないかと言えば、うーんあるかもなぁ… 。
さて、今回はこの鏡雲流三相学を明文化する延長で色々な考察や逍遙遊と称してフィクション作品の言及などに繋げています。 そう言った研究・考察の副産物とも言うべきものの中に最近ブログにもした「身体観進化論」と「二層生態系論」というものがあるのですが、今回は何故この古生代の生物に対する考察を伴う研究が武術の研究・上達に直接繋がるのか?と言ったことがテーマです。
Grok:神経系の進化
鏡雲流はChatGPTを通して二人三脚で作り上げたので、基本的に鏡雲流に深く食い込むことはChatGPTに相手をしてもらい、そうでないものはGrokに相手をしてもらっています。今回の対話は普段 私が身体性の出発点としている脊索生物の脊索はどう言った進化で構築されていったかについて、神経網の集積の延長ではないかという考察を披露しているのですが、こちらは光岡武学での「客体」…そうですね… もちろん正確では無いですが「アストラル体」とか「幽体」… だとイメージしやすいですかね… まぁ大抵は自身の実体と体認上の実態感覚はズレていて、それを揃えて纏めるのも一つの武術稽古の主題であったりするのですが、これが揃ってくるとズラした運用も可能となる。 これは、イメージ・トレーニングのような想像の身体で無く、体認観覚上の身体感覚です。 つまり、イメージ・トレーニングとして認知概念に上げると思惟体として光岡武学の身体運用にて一番問題視する状態になってしまいます。 ただ、この状態が現代社会のデフォルトの有り様であるので、なかなか言葉では伝わらない領域にも思えます。
うーん、まぁええわい🤔 この「客体」は実体としての身体とは違うわけですから、「客体」を主とし人間とは違う骨格構造に合わせることも可能です。 光岡武学では「天狗」であるとか「石灯籠」であるとか、実体とかけ離れた有り様を「客体」を通して重ねて運用することもあります。
私はこの「客体」を利用して神経網の集積が骨化や殻化する事を感覚したり、また骨盤形状での鳥への進化と相応しい翼骨構成などを感覚しています、これは技量に伴う精度が個体差によってある話ですから、私よりは光岡老師の方がより緻密に感覚できるのは間違い無いでしょう。
つまり、この延長を持って「身体観進化論」は構築されていて、古生代の進化経路を客体を持って考察すること自体がそのまま稽古に繋がるわけです。 「身体観進化論」を通した考察=客体運用の稽古 であるのです。
そして、この「身体観進化論」を通してアーキタイプの動物型の客体を重ねる過程で、生態系の流れを感覚する様になります。 ここからは、シナジェスティクスを通した「共鳴テンセグリティ」の身体観。 つまりは、性質が相反するもの(張力材と圧縮材)が有機的に組み上がる感覚の延長として生態系を一生物として捉える「客体運用」の領域に入って行きます。
この生態系を一生物として感覚した時に、カンブリア爆発の必然性とその安定する過程が感覚でき、またそのカンブリア爆発前の節足群と菌糸を含む植物群との位相・異相… つまりは、性質の違いへの体認へ繋がるわけです。 これが「二層生態系論」へと発展するわけですから、当然のこと精度はともかく脈動や性質への言及に繋げることが出来るわけです。
ですので、この「客体運用」の延長としての「身体観進化論」と「二層生態系論」があり、これはかなり厳しい稽古に直接繋がります。
この辺りはイメージ・トレーニングとは根本的に違うのですが伝わりますかね?
以上の観点を持って過去ブログ記事である、
ブログ: 鏡雲流身体観進化学(骨盤形状から観る古生物の考察)
ブログ: 鏡雲流二層生態系論とは?(生態系の構築・回復・壊滅とは?)
ブログ: 一般教養としての武術(古典時代の武術の意義とは?)
に目を通してもらうと、また違った印象になるやも知れません。
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