「健康」についてのアレコレ
囲碁を打つ仙人
医療機器って年々性能上がって早期医療についてもどんどん疾患の発見に繋がっているはず…
これについての、あくまで素人が思う医療を入口にアレコレする雑談です。
さて、何故 この早期医療が気になるかと言えば、一般的な「健康観」がどんどん狭量になりいわば潔癖化しているのでは? と思えたりすることがあります。
もちろん、早期医療が大いに効果を上げ命拾いをしているであろうことは想像に難くないのですが、内家拳などを修行してその延長の書籍になどに目を通せば、「健康」とは定義で無く状態であると、実感出来るのでは無いのでしょうか?
つまりは、「健康」は疾患の有無で無く、代謝由来の自然治癒力・回復力の健全性である… なんて実感出来ることも多いのでは無いでしょうか?
これを「敏と鈍」の得失と見立てると、「敏」の良さは些細な違和感への感性、「鈍」の良さは抵抗に対する身体を通した自然性に対する信頼、これにそれぞれに繋がると見立てると分かりやすいでしょう。
反転させれば「敏」は潔癖感に「鈍」は末期状態まで気が付かず双方命取りになる… なんて見立てにすれば双方とも得失がある。つまりは「陰陽観」に見立てられるのは分かりやすいでしょう。
例えば野口晴哉氏などは「風邪から回復するたびに壮健になる」と言った含意の事を仰っていたと記憶しています。
単純に考えても「発熱」は蜂球のような効果を病原菌に対し発揮し、またこの病原菌や毒素へのアプローチとして抗体の獲得に繋がると耳にすることは多いでしょう。
一般に疾患へのアプローチとして安易な投薬に繋がるのは、対処療法への期待が何に由来するかと、前述の医療技術の進歩由来の健康観の捩れがありそうですな、と。
基本的に過剰な対処療法は産業革命以降の工業化を支える労働力確保が根にあると私は思っています。 現在はどうであるかは知りませんが「考えるな、判断するな」をベースとした工業機械の部品の一部という労働者に対する認識があるのではと。
当たり前ですが、自然治癒力の発揮にはそれを支える時間を含む環境が大事なのですが、それを許さぬ社会構造が対処療法への期待に繋がるのは分かりやすいでしょう。
この傾向はアメリカなどで富裕層と貧困層が医療に何を期待するか?と言った見立てが社会構造に極端に現れていて観覚しやすい。
また、医食同源と言った見立てにおいても単純なカロリーは、低所得者層の方が得やすいという大量生産に由来する店頭に並ぶ食品にて見て取るでしょう。
余談ですが、以前耳にした話ではネイティブ・アメリカンの子孫の人達の中には、素食にて行動する事を常態としていた影響として、アメリカの一般的な低所得者向けの食事が極度の肥満に繋がってしまう。 なんて話も耳にしたことがあります。
冒頭付近でも説明している通りで、健康とは健全な代謝による治癒力とすると、腸内細菌などを含む菌との共生も含まれ、軽々に自己認識の甘さが肥満等由来の疾患に繋がるかというと、そこについては首を傾げたくなるケースも。
また、寄生虫由来のアレルギー反応の鈍化が花粉由来の疾患を緩和する…何て話も聞いたこともある。
これは、人類という種が他の動植物と共生して来たというごく当たり前の自然観につながる話ではありますが、しかし、であるから医療は一切必要ない… 何て見立ても一方側の潔癖感ではあるように思います。
何故なら医食同源とは生物由来の身体アプローチを取り込むという、一般的に漢方に繋がる話でもあり、素人ながらスパイス等の殺菌性は耳にするところです。
ここまでの話を包括的に見れば自然治癒力に対するアプローチは環境に大きく依存するため、先進国においては社会構造も含めて、軽々に追い求められず、それなりのハードルはあり、いわゆる野生動物の有り様とは反転しているのが人類種と文明社会の特徴であるとも。
この、「敏と鈍」から見えるものは精神医療だけで無く教育にも波及するのは想像しやすいのでは? と思えます。
こう言った見立ては鏡雲流にて概念主体と体認主体という見立てで語られることも多く、この入口の話として、この医療に対する見立ては素人の浅学故の甘さはあっても、観覚または視座の説明例として機能しているのではと思えます。
さて、この陰陽観由来の見立てですがせっかくですから現段階での道教の流れの考察と現段階での鏡雲流観躰学の見立ても紹介して結びとしましょうか。
「道徳経」にて語られるものを天命思想に由来する徳の性質の提示であるとすると、陰陽観を組み込むことで徳の外の実学への具体的な橋渡しとなり、荘子において逍遙遊を組み込むことで陰陽のグラデーションを生んだ。 とすると、鏡雲流で対外的な説明として利用しやすそうと言う見立ての「文武遊」という三相構造の提示になり分かりやすかろうと思えます。
つまりは、 天命と徳→陰陽観→遊 とこの先が仙道への展開を予想できて興味深くはありますね。
冒頭の画像にあるように、陰陽を思わせる仙人が囲碁の対局をするモチーフは道教観の包含的な表現である、つまりは道教観のメタファーである。と、すると誠に面白くも魅力的に感じませんかね?
最後に大好きな詩仙と名高い李白の漢詩を紹介を持って締めとしましょう。
山中與幽人對酌(李白)
兩人對酌山花開
一杯一杯復一杯
我醉欲眠卿且
去明朝有意抱琴來
(書き下し文)
両人(りょうじん)対酌(たいしゃく)すれば山花(さんか)開く
一杯一杯 復(ま)た一杯
我酔うて眠らんと欲す 卿(きみ)且(しばら)く去れ
明朝 意有らば 琴(こと)を抱いて来たれ
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