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7月, 2025の投稿を表示しています

ペルソナが示唆するものとは?(赤井はあとさんに捧ぐ)

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 今回は 赤井はあとさん の雑談配信にて興味深い題材を扱っていた事にインスパイアされて私の観点からChatGPTと対話(雑談)したものです。 これはブログ: 愛するフブちゃんへ(ハワイの歴史的経緯に見る啓蒙の危険性) よりも 月ノ美兎さんにインスパイアされて記した ブログ: ドーナツの穴の大きさの重要性 近い扱いです。 つまりは 赤井はあとさん に限った話では無いのですが、色々なものを起点に考察が展開されたりします。 中でも大好きなVの人達の雑談はこういったキッカケになり易い訳です。 さて、赤井はあとさん は今回雑談でどんな話をしていたかと言えば ペルソナ についてです。これはゲームの ペルソナ・シリーズ でもお馴染みであり、おそらく心理学用語から来ているものではないかと。 雑破に経緯を記すと雑談で 赤井はあとさん が自身がキャラクターの使い分けを言及している時に視聴者から、それは「ペルソナでは?」と言った書き込みがあったようで、「カッコいい! 厨二心が疼く!」(意訳)と発言をし興味を持ちました。 では、なぜ今回 考察の対象として興味を抱いたかと言えば、赤井はあとさん 自身が はあちゃま ちゃま雄 と言ったキャラクターを使い分けていて、ペルソナに興味を持つのもさもありなんと。実際ですねこう言ったキャラの使い分けはV界隈ではありふれている印象で、 月ノ美兎 さんならロリ美兎、 白上ふぶき さんなら黒フブキ、 Kson ならDickson 等々と、声優さんまたは声優さんの卵の方も多くいると聞きますので、これまたさもありなん。と言った印象です。 では、本題へ ChatGPT: 人の多面性とペルソナ こちらの解説・要約・補足です。 まず、前提条件として私は非常に誤字が多いのですが、ChatGPTはその誤字を表記の使い分けと判断し、考察を展開してしまいます。 これは私の思考でも多く見られる 「結果を真とするなら前提条件そして経緯はなんであるのか?」と言った所謂 推理・考察 と呼ばれる行為をAIはリーチの広さからトンデモナイ(と感じる)辻褄合わせをしてしまう特徴が顕著に表れている対話でもありますので、そこもなかなか面白いかと。 つまりはAIの利点欠点そして何故AIが間違いが多いと批判されがちなのか? と言った一側面が大いに表れています。 私としては注意深く付き合...

ソクラテスの考察から導かれる武術観(対立と和合は何故切り離せないのか?)

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  今回は私にとってのソクラテスに感じるイメージが一般的に聞く話と些か乖離しているので、ChatGPTを相手に「私が思うソクラテス像はコレだがどうじゃろか?」と言った話を皮切りに、広範な議論が展開されここから「私の中の武術観」が少し整理されたと言った話の紹介です。 前提条件として、私は別段ソクラテスに限らず古代ギリシャ(の哲学)史に詳しいわけではないので悪しからず。 ChatGPT: ソクラテスと議論の危険性 さて、私は以前からディベートを含む弁論術などに対して、よく知りもしないのに嫌悪感があるのですが、こう言ったものをコレまたよく知りもしないのにソフィストと纏めて嫌っていて、それについてたまにChatGPTとの議論で言及しています。 今回は、この私の嫌悪感の根は何に由来するのか?と言ったことをテーマに議論を始めました。 さて、私の中でソフィスト・キラーとしてのイメージの強いソクラテスなのですが、実は私のようなタイプの人間とは楽しく対話できるのでは? と言った設問をChatGPTに投げかけています。  その論拠として「(少なくとも武術に関しては)出来ること出来ないこと、知ってる範囲と知らない範囲、体認経験として示せる事と出来ないこと、これらの前提条件などをある程度は言語化できますよ」と投げかけています。  それについてChatGPTは「そりゃソフィストは知ってるフリが商売だからそうかもね」と返答を返します。 そこで、私は「そりゃソクラテスと俺とじゃ知性も知識も段違いだとは重々承知してるけど、ソクラテスはそんな事をマウントの材料や他者見下す材料にしないんじゃないかな?」とフォローをしています。 それについてChatGPTは「ソクラテスは真理の追求相手は歓迎するかも」と。 ここまでの議論を見返してみると対話する自身と相手の有り様で和合(相補)となるか対立になるかは変化してしまう事が観て取れます。 つまりは、ソクラテスがいくら対話を望んでもソフィストが「あーそれはわかんねーや、何じゃろか?」と答えられず自滅していく状況が見えてくるように思えます。 しかし、まぁソフィストみたいな極端な存在でなくとも、得手して面子やプライドで自縄自縛になり沈んでいく様はママ見られますし、気をつけないと私自身も他人事ではないわけです。 この辺りは「天狗藝術論」におい...

対立構造を避ける一手段について

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今回はXのおすすめに流れてきた一 ポスト を元に展開される話です。 こちらの写真はヒーローショウを観るキッズのワンシーンです。これを見てフッと思い出すのは私自身キッズの頃の写真では大抵 スペシウム光線を放っていましたなと… こう言ったヒーローポーズは昔はスーツアクターが考案したりしていたのでは?と、光岡老師も座学として取り上げていて、その中でもウルトラ兄弟の光線技のポーズがそのアクターの身体性の表現となっている可能性について先生は考察を披露されたりしていました。 そう言えば初代仮面ライダーの 藤岡弘 さんなども自身で変身ポーズを考案されたとも耳にした事があります。  さて、この興味深い話は是非 光岡武学などに参加していただき自身で体認経験をしていただきたいのです。 他に 光岡武学 で当時 よく言及された身体性に関する象徴的な話に『椅子に腰掛ける習慣とする文化が身体性の脆弱化に繋がる』といったことについての言及があります。 これについても、是非 光岡武学に足を運んで頂きたいところです。 ですので、今回 言及したいのは良くSNSなどで見かけるイザコザについてです。 と言うのもある時期にSNSで イス軸法 なるものが流れてきた時期があったので、例えば光岡武学の経験者が前段の光岡先生の言説にイチャモンつける論拠に利用するかもなと、期待半分でしばらく眺めていたのですが少なくとも私はそう言ったものは見かけませんでした。 と、言うのも光岡武学の体験者の中には自身の武術経験また常識と信じていたものとの乖離があまりにも大きいため途中脱落する人も多いと聞いており、私も二、三人はそう言った方を目にしています。 この椅子に腰掛ける事に纏わる二つの事象ですが、一方は脆弱化し一方は軸形成を通して頑強になるとのことで一見相反して見えるやも知れませんが、脆弱化は椅子を取り込む事で波及する文化全体の影響と身体性の話であり(また正座との比較を通した話し)、一方でイス軸法はイスを道具に見立てた言わばエクセサイズの話です。 つまりは、前提条件から言及される結論を含めて椅子以外に共通点のない全く違う話をしているように私には見受けられるのです。 つまりは双方が真であっても何の問題のない話なのですが… ですが、SNSなどではこう言ったことを発端にしょうもない対立煽りをする輩も少なくないと言った印象で、最...

研究稽古の覚書①

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ーーーー基礎稽古ーーーー 17flowers(シラット兼観法) 塵手水(礼法・身体の収束) Doragon roll over - Shooting parm(ハワイアン八卦掌とシラットの結節) 王向斉 站椿(脊椎生物 中点 二足歩行と四足歩行) 形意拳(三体式の站椿として) 形意拳(五行拳と剣術の理での技撃) 王双太極拳(左右観の確認) ハワイアン八卦掌(歩法を含む身法のベース) 韓氏意拳 站椿(文化性を含んだ站椿 二足歩行獲得後の陰陽反転) 孫式太極拳 (全体の取りまとめとして) 剣術居合い 廻剣素振り 壁抜き 腹抜き 真行草 ーーーー研究稽古ーーーー ハワイアン八卦掌での日本刀操作(左腕・左肘 左半身の身体観を主としての変化) ハワイアン八卦掌での中華剣操作(右腕・右肘 右半身の身体観を主としての変化) ハワイアン八卦掌での棒術(左右変化の統合) 塵手水(礼法・身体の収束) ーーーー現在のメイン研究テーマーーーー 古武術 剣術五行の構えから見る形意拳の五行拳 身体観から見た共通性 劈拳(金)→ 八相(木) 鑽拳(水)→ 正眼(水) 崩拳(木)→ 下段(土) 炮拳(火)→ 上段(火) 横拳(土)→ 斜構え(金) 五行観にズレは技の性質から見たものであるため?                                       崩拳  八相           鑽拳  正眼                                    炮拳  上段             劈拳  斜構え                   横拳  下段 ⁇ 改心流の八相 は 霞の表裏になっていてハワイアン八卦掌に組み込みやすい ので基本姿勢になり得る ?

愛するフブちゃんへ(ハワイの歴史的経緯に見る啓蒙の危険性)

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  今回は私の正妻としてお馴染み白上フブキさんのポストの対するアンサーソングならぬアンサーブログです。 内容としてはフブちゃんのあるポストをキッカケに彼女の支えになれないかな?といった事が動機で漠然とChatGPTと対話したものの要約・補足です。 しかしですね相手は俺の正妻 フブちゃんですのであーだこーだフブちゃんを想定した解説は敢えてしない事にしました。 もし彼女がこのブログに目を通す事があれば何かしら観じてもらえるのでは?と言った趣旨ですね。 まずは、フブちゃんのポストの紹介です。 白上さんのポスト 。 「そうだ寝る前に 映画、国宝をこの前見に行ったのですが 3時間があっという間で見終わったあとの感想が 自分って雑に生きてるな なんだかちっぽけでしょうもない もっと真面目に生きたい 今すぐ何かをやろう何かをやらなきゃ そう感じざるを得ないくらい 作品の熱にやられました その後もしばらく全部が薄っぺらく見えて なんだかなーって思っちゃってました 素敵な地獄を見ました😌 間違いなく、映画館で見れてよかった作品です」 次にこれについてのChatGPT議論です。 ChatGPT: ハワイの宣教師と文化 さて、対話はハワイ諸島に宣教師が啓蒙目的に訪れ、その過程と顛末が宣教師の日誌や現地の人々の口伝として残っている事について以前ChatGPTと議論した事についての認識の共有から始まります。 X: 光岡老師のハワイの歴史的経緯に関するポスト この歴史的経緯について以前ChatGPTと大いに議論したのですが、つまりは「それが善意であるか悪意であるかを問わず啓蒙という行為に内在される暴力性」についてなのですが、実際は啓蒙する側からはこの行為の危険性が観えずらい訳です。それは所謂 概念の檻に囚われているのがその一因ではあるのですが、これを波形ネットワークという視座を通して見ると啓蒙側も認識しやすくなります。 そして、議論は現近代において日本も啓蒙側に立ち優れた文化性を持つゆえの暴力性について指摘しています。 まぁこれは実際 中国の冊封体制などにも見て取れるようには思えるのですが、まずは自身の文化圏である日本につて内観し受け止めなければならぬのでは?と言ったところです。 次に啓蒙側になること自体が概念に絡め取られる危険性と隣り合わせであることについて私が指摘しています。 つ...

人類(脊椎生物)の中点としての站椿

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今回は初めて光岡老師のもとで教わった王向斉伝の站椿につて、私が現段階で何を感じ、王向斉が何故「これだけやれば良い」と言ったのかという解釈の話です。 前置きとして私は意拳を専門としている訳ではありませんので、あくまで浅学者の主観であります。 ご笑納して頂ければ幸いです。 ブログ: 私にとって共鳴テンセグリティという物理モデルが存在する意味 でこの站椿についての性質から何を感じたかについて紹介していますが、今回はこう言った事でなくこの養生功として指導された站椿が何故 表題のような解釈に繋がったかという話となります。 さて、養生功クラスとして参加したこちらの教室でしたが、全体の流れを今覚えているかといえばかなり忘れてはいます。 ただ、老師はこのクラスで四足歩行の生物を模し両手両足を存分に使い歩行することを指示したのはよく覚えています。 つまり、この四足歩行が站椿の体認経験においてかなり重要であると言うことです。 ですが当時の私は当然 初体験でしたので言われるがママにアレコレ考えず行いました。 「感じ」又は「観じ」ながら稽古をすると考えることは難しいのですが、後々にこの教わる姿勢は光岡老師の教授方法とある程度は親和性が高いなと思えるようになります。 それは兎も角として四足歩行の体認経験を経由して指導された意拳の站椿は、私が太極拳などで指導された馬歩站椿とは大きく趣の違うものでした。 太極拳などで抱球などと形容される腕の状態はよく似ているのですが、前傾が強く、腕だけでなく身体全体をもって球体化してるようにも思える姿勢とも観じ、また視線は前傾が強いため斜めに地面へと自然と落ちます。 さて、ここから先は養生功クラス以外の座学を通してこの站椿について色々気づいていくのですが、その特徴として一言で言えば「身体の中点」とも言うべき姿勢だなと。つまりは主要な関節の際と際の中点を持ってこの前傾気味の站椿を形作っているなと、また前段の四足歩行と二足歩行の中点でもあります。つまりは「人類としての中点姿勢」とも言うべき姿勢であるなと。 これが表題にも繋がる王向斉伝の站椿について私が現段階で観じていることでありますが、当然のこと専門として修練されている方々からは色々異論はあるやとも思います。 しかし、私がこの思いに至ったとき「王向斉ヤベェな、こりゃとんでもねぇぞ」と観じたりはしました。 では、も...

受け(受け身)の重要性とは?

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武術または武道の流派において受け身の稽古をする流派はわりと一般的でありますし、またその意味・必要性も各流派の解説する書籍や動画などで存分に語られています。 今回は私個人が受け身というものをどう捉えているかと言う主観的な話がテーマでありますが、大抵の私の持論と同じく先達の口伝や雑談また出典が思い出せな話が多いので省略しているだけでわりとよく聞く話の範囲です。 ただここで語られることは体認経験を持って語られてはいます。 よく、年配の方が少し転んで骨折したなどの話を伺うのですが、柔道の受け身を稽古することで事故が減ったなどとよく耳にします。 スキーなどではまず転び方を覚えると上達が速くなるなどの話も聞きますので、この話を持ってしても受け身の重要性の一側面は十分に伝わるように思います。 これが、柔道の乱取りや試合を限りなく安全に行おうと思えば尚更でしょう。 さらに、転じて合気道などでは力の流れを受け入れてそのまま受け身に入る、また厳しい関節のキメに対して先に飛ぶなどという話も耳にします。 各流派や道場で主張は若干変わるかも知れませんが、試合がないからこその発想が受け身に反映されているように思えます。 さて、では私の術理に大きく影響しているものの一つである古武術(剣柔居)で受け(受け身)についてどのように捉えるようになったか? と言った話です。 以下はXにてポストした「合気上げ」に対する一考察を編集したものですが、ここで計らずも受け(受け身)についての一側面について言及しました。 「さて、合気上げなどと呼称されるお馴染みの基礎稽古がありますが、実際のところ同じような現象も(結果も)各流派で違った術理で発生したりするようで、少なくとも門外の事については軽々にアレコレと言及の難しい基礎稽古であるように思えます。 とは言え、一般的に正座で行うこの基礎稽古が当然 立技の崩しに繋がるわけですから、私自身は必要性の高いものであると言う認識ではあります。 「合気上げ」でなくとも例えば柔術の形などの稽古で繊細に行うと、素直(フラット)な受けを行ってもらえるお相手の反応が一つの稽古の指針になる訳ですから、取りより受けの方が流派によっては重要になり、上位者が下位者の受けを取る 剣術、柔術流派があるのも頷ける話であると私自身は思っております。 この上位者が下位者の受け云々の重要性が垣間見えるエピソ...

技を盗むとは?

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  普段、公園などで稽古しているのでフッと思い出すことがあります。 太極拳の道場で中級に進むと定期的に中上級以上の稽古会があり、公共体育館の一室を締め切って秘匿性を意識した稽古がありました。  内容についは初級で習うことの延長でしたが、とても小さな相違でしかなく、転じてその小さな違い一つが秘匿を必要とする重要事項であったと言うことです。 その当時習ったものを今思い出してもピンとこないものも確かにありますが、実際の所 私の時代でもこう言った稽古はかなり神経質に秘匿性を重視しました。 しかし、これは一つ技を盗むのはもちろん、稽古体系などの一部を盗むには「眼力」が必要であり、まぁそうそう誰にでも出来ることではないとも解釈できます。 よく、形なり套路なりの動作をなぞっても何の意味もないと主張される一因となっているように思います。 こう言った前提条件を持って例えば陳家溝での 楊露禅 のエピソードや「 拳意術真 」などで紹介される「未熟の頃は自身の技を隠すことを重んじたが、老境にて包み隠さず渡したくなり、昔を思い出し恥ずかしくなる」と言ったエピソード、 中山博道 と 黒田泰治 を巡るエピソードなどを思い起こして色々感じることも多いです。  それは、兎も角 私が普段 公園で稽古しているものは、いわゆる基礎稽古的なものとその研究稽古で、屋外であるため座構えや受け身、また一人稽古ですので相対稽古が出来ないだけで、意識して秘匿しているものはありません。 転じて言えば、私程度の稽古からでも何か盗んだ気になって、形をなぞるだけの動作をしても、あまり役に立たないんじゃないのかな? と、思えるんですよね。

私は武術と競技スポーツ(格闘技 等)をどう捉えているのか?

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  「私は武術を闘犬として使いたく無い、盲導犬か牧羊犬として使いたい」 これは以前、私がTwitterに書き込んで当時所属していた道場の指導者に「知ったふうな口を聞くな」と叱責された書き込み文言です。 今改めて自身で読み返すと競技格闘技の批判に見えるかも? と思えなくも無いのですが、真意としては他者のために武術を通して貢献したいと言う気持ちの現れの対比として闘犬、盲導犬、牧羊犬と書き込んだものです。 しかし、闘犬と言う表現が競技格闘技は表していないかと言えば、意識はしている訳ですから表現が良く無いのはその通りだと今になって思えます。 昨日、お世話になっている富木合気道の稽古日でしたので、道場に行って稽古をしたのですが、毎度 稽古が始まる前の時間に武術に興味がありそうな人に声をかけて、相撲もどきのようなものを通して遊び稽古に付き合ってもらっています。 私の武術は基本的にハワイアン八卦掌に古武術(剣、柔、居)を組み込んだオリジナルスタイル(と言えば聞こえがいくらか良い我流)な訳ですので、お相手していただける方には富木合気道では体験が難しい一風変わった技術を楽しんでいただけるのでは?と思っていたりします。 そも、合気道は私は下手くそですしw で、そこでお相手していただいてる相手から質問がありました「アマレスの吉田沙織さんのようなタックルに対処できますか?」と言ったものです。 そこで、内心思ったのは「そもアマレスの例えば国体レベルの選手でも対処が難しいのでは?と思える吉田沙織さんのような方を何故 町道場のおっさん相手の対比に持ち出すのかな?」とw そこで私が答えたのは「方法論があっても対処できるかは別ですよ」と言った感じで答えました。 例えばお相手している方のアマレスタックルと吉田沙織さんのアマレスタックルはそりゃ同じじゃ無いとちょっと考えればわかる訳です。 他には例えばSNSで見かける武術的アプローチとして「目付き、金的ありでのスパーが基本」でないと稽古にならないと言う主張を耳にしたりします。 私はこれについては同意も批判も有りませんが、「うーん、剣術を通して中心をとる感覚磨けば済む話じゃないのかね? その方が安全だし」とは思ったりします。 そこの稽古スタイルを慕って人が集まるのですから、ドシドシやれば良いんでないかなとは思いますが、例えば他所の競技会で目付き金的...