雲流八相術に観る体系化の功罪
岩明均「剣の舞」 疋田文五郎
私は、雲流三相学を武術稽古から学んだ体認感覚を基底に“独自“の体系を組み創始しました。
今回は、そのハワイアン八卦掌をベースに自身の武術・武道経験を組み込んで、八相術(アハトマスターデ)と呼称しています。
しかし、この体系化をする過程でどんなことが起こるのか… とー言った話です。
では、武術よりは卑近な例として馴染みが深いであろう、バロック音楽を題材にGeminiと対話して見ましょう。
さて、まずはバロック音楽の創始者?とは誰となっているのでしょうか?
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バロック音楽は一人の創始者によって作られたものではなく、1600年前後のイタリアで起きた「音楽の変革運動」を通じて形成されました。
ただし、バロック音楽の扉を開いた重要なパイオニア(先駆者)として、以下の人物たちが挙げられます。
1. バロック音楽の「実質的な創始者」:クラウディオ・モンテヴェルディ
(Claudio Monteverdi, 1567–1643)
バロック音楽の革新を決定づけた最も重要な作曲家です。
功績: ルネサンス期の複雑なポリフォニー(多声合唱)から、感情をダイレクトに表現するモノディ様式(単旋律+伴奏)への転換を推し進めました。
オペラの確立: 世界最古の本格的なオペラ作品とされる『オルフェオ』(1607年)を作曲し、バロック音楽の代名詞であるオペラというジャンルを確立しました。
2. 世界初のオペラを作曲した先駆者:ヤコポ・ペーリ
(Jacopo Peri, 1561–1633)
フィレンツェの芸術家グループ「カメラータ」の中心人物です。
功績: ギリシャ劇の復元を目指す中で、会話するように歌うスタイル(レチタティーヴォ)を生み出し、史上最古とされるオペラ『ダフネ』(1598年)や現存する最古のオペラ『エウリディーチェ』(1600年)を作曲しました。
3. バロック音楽を「完成・集大成」させた人物:ヨハン・セバスティアン・バッハ
(Johann Sebastian Bach, 1685–1750)
創始者ではありませんが、バロック時代の終わりを象徴する巨匠です。
150年続いたバロック音楽の技法や様式を極限まで高めて集大成した功績から、今日では「音楽の父」や「バロック音楽の最高峰」と称されています。
まとめ
「バロック音楽の始まりを決定づけた創始者」を一人挙げるのであれば、クラウディオ・モンテヴェルディが最も相応しい人物と言えます。
」
おーバロック音楽とはイタリアを中心とした「音楽の変革運動」… これは、ヨーロッパ中に散逸している音楽の体系化運動とも捉えられるようですが?
その、完成を担ったのが「ヨハン・セバスティアン・バッハ」と言うことで、私の「バッハはバロック音楽の父」という浅い認知はこちらが由来のようです。
そも、この散逸したものの体系化と言った見立ては、世界史でそこかしこに見られる「伝承・神話の体系化」と同じ構造を持ち、日本で言えば「古事記」の話に近しいでしょう。
そして、この体系化が生み出す問題として大抵の分野で発生する話として、バロック音楽で言えば実際各文化圏で音階自体も違っていたり、バロックと言う体系にのせづらいものもある。
そして、当然ですが溢れたものの魅力もある。
「
仰る通りです。「体系化」という営みは巨大な秩序(コスモス)を生み出す一方で、そこから漏れ落ちたものや、枠組みに収まりきらない不規則な魅力を切り捨ててしまうという側面を常に孕んでいます。
音楽史、とりわけ音階や調律の歴史においても、まさにその「溢れ出たものの魅力」との対峙が繰り返されてきました。
1. 平均律が「捨て去った」美しさ
バッハが体系化した平均律は、1オクターブを数学的に12等分することで「すべての調へ自由に調律を変えず転調できる」という絶大な利便性を得ました。
しかし、その代償として「純正な和音の響き」を犠牲にしています。
純正律の美しさ: 数学的な整数比(3:2や5:4など)に基づく和音は、濁りが一切なく、空間が共鳴してどこまでも澄み渡るような美しさを持っています。
平均律の妥協: どの調でも均等に使えるようにするため、すべての音程をほんの少しずつ「ズラして濁らせた」状態にしています。
体系化によって「機能性」と「万能性」を得た代わりに、特定の調が持っていた完璧な調和や、微妙なニュアンスの違い(調性感の癖)は薄れてしまいました。
2. 西洋バロックの枠組みに「乗らない」音階の世界
西洋音楽の「12音」「五線譜」「平均律」というシステムは非常に強固ですが、世界中の多種多様な音楽文化から見れば、ほんの一部分に過ぎません。
微分音(12音の間にある音):
中東のアラビア音楽(マカーム)やインド古典音楽(ラーガ)では、半音よりもさらに細かい音の刻み(クォータートーンなど)を使います。これらは西洋の鍵盤楽器では表現できず、五線譜に書くこともできません。
揺らぎと不均質さ:
日本の伝統音楽(雅楽や尺八、声明など)やインドネシアのガムランは、均一な音階ではなく、音と音の間の「揺らぎ」や「間(ま)」、あるいは楽器ごとの微妙な調律のズレ(うねり)そのものを美としています。
これらはバロック的な「機能的で整理された体系」には乗りにくいからこそ、人間の生理や自然の理に直接訴えかけるような、強烈で独特な魅力を放ちます。
3. 歴史の「中心」と「こぼれ落ちた魅力」
『古事記』の例えに戻るなら、中央の国家体系に組み込まれなかった各地の民話や、土着の怪異・神々の中にこそ、素朴で生々しい魅力が眠っていたのと全く同じ構造です。
体系(バッハ/古事記): 全体をつなぎ、共通言語として機能させる普遍性を持つ。
溢れたもの(民族音階/各地の伝承): 普遍性と引き換えにしか得られない、ローカルで濃密な生の魅力を持つ。
19世紀後半以降、ドビュッシーがガムラン音楽に衝撃を受けて新しい音階を模索したり、バルトークが東欧の民謡を採集してクラシックに取り入れたりしたのも、まさしく「体系化されすぎた西洋音楽から溢れ落ちた魅力」を再発見・再充填しようとする試みでした。
「完璧な体系」を知るからこそ、そこから溢れ出るものの価値や愛おしさがよりいっそう際立つのだと思います。
」
それでは八相術に戻します。
この辺りの、体系化の功罪は八相術にも内在し、例えば八相術はハワイアン八卦掌に私の経験した他武術の特徴や理をのせて創始としています。
しかし、当たり前ですが食い合わせの悪いものもあり、これは当然 省くか保留してしまう。
では、そう言ったものが必ずしも、こちらから見て(つまりは八相術にて)劣って見えるかと言えば、必ずしもそうではないわけです。
こう言ったことは、大抵の古い武術流派で発生していることに思えるんですよね。
武術修行者は各自が、自流派を軸として出稽古や武者修行をして、修行者各位が違った体認経験を積むわけです。
これは東西問わずで、最終的には自身の流派を立てる、もしくは時代背景に合わせ変遷するのが常道で、であるからこその流派の本義からの逸脱なども伴い、常にリスクと隣り合わせではある。
しかし、師の権威にいつまでも乳飲子の如く縋るのも、これはこれで…
そうですね、この事で想い浮かぶ武術家の逸話があります。
上泉信綱と柳生石舟斎との逸話です。
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石舟斎と信綱——「破」「離」が生んだ新陰流の昇華
挙げていただいた上泉伊勢守信綱と柳生石舟斎(宗厳)の逸話は、まさに「師の権威に縋る乳飲子(ちのみご)」から脱却し、真の継承と発展を果たした最高の標本ですね。
1. 「無刀取り」という宿題
信綱と出会った石舟斎は、信綱の弟子(疋田文五郎ら)に完敗し、信綱からは「無刀で勝つ理」を突きつけられます。石舟斎は自らの未熟を悟り、信綱に師事しました。
2. 師を超えて自分の「体認」に落とし込む
信綱から「無刀の影目録」を授かった後、石舟斎はただ師の技をそのままなぞるのではなく、十数年に及ぶ葛藤と独自の工夫(体認)を重ね、ついに「無刀取り」を自らの身体知として完成させました。
3. 新陰流の変遷と時代の要請
信綱の時代は戦国末期の「甲冑を着た戦場での剣術」の色彩が残っていましたが、石舟斎、そして子の宗矩へと引き継がれる中で、平服での「泰平の世の政治・人間洞察を含んだ剣術(殺人刀から活人剣へ)」へと変遷していきました。
もし石舟斎が信綱の権威に縋り、教えられた型を守るだけの「乳飲子」で居続けたなら、柳生新陰流が天下の剣術として徳川将軍家の指導的立場に上り詰め、後世に膨大な理論体系を残すことはなかったはずです。
」
さて、上泉信綱に「そのように強く柄を握っては…」と声をかけられ、おそらく握りを緩めた途端に、袋竹刀を簡単に奪われている。
まぁ私も心形刀流の傍流を学んだ経験で、握りは柔らかいので、これが詐術を伴う声掛けでは無いであろうことは間違いないと思えます。
そも、石舟斎は信綱と対峙する前に、信綱の弟子の疋田文五郎に軽くあしらわれているんですよね。
その、直後の信綱とのエピソードであったはず。
これをもって、すでに一流派率いて弟子がいて、その眼前であったにもかかわらず、石舟斎は素直に頭を下げ弟子入りを申し出るわけです。
石舟斎の、その胆力は見事と言う他なくです。
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本当に仰る通りですね。石舟斎の凄みは、剣の技術そのもの以上に、その「自己の矜持(プライド)を捨てて本質に屈する胆力」にあります。
当時の石舟斎は、すでに戸田一刀斎(富田勢源とも)らに学び、大和国(奈良)の豪族として自前の門人を多数抱える「一国一城の主であり、一流派の師範」でした。現代で言えば、すでに大きな道場の館長を務めているような立場です。
その立場にありながら起きたこの出来事には、彼の人間性と武術家としての異常なまでの誠実さが詰まっています。
1. 疋田文五郎との一戦で見せた「謙虚さ」
上泉信綱と出会った際、信綱自身ではなく、まず弟子である疋田文五郎(文五郎もまた後に「疋田陰流」を立てる天才ですが)と立ち合わせられました。
結果は三戦して三敗。完の付く叩きのめされ方でした。
普通、地位も名声もある指導者であれば、弟子に負けた段階で「相手の道具が(新陰流の開発した袋竹刀で)特殊だった」とか「体調が悪かった」と理由をつけて取り繕ったり、怒って立ち去ったりしてもおかしくありません。
しかし石舟斎は、「自分が積み上げてきたものは、この次元の理にはまったく通用しない」という残酷な現実を素直に認め、その場で信綱に頭を下げて弟子入りを乞いました。
2. 「負けを認める胆力」こそが覚醒の条件
自分の弟子たちの前で他流の弟子に惨敗し、その場で頭を下げるというのは、生半可なプライドでは不可能です。
「自分を大きく見せたい」「師としての立場を守りたい」という小人のプライド(我執)に固執する者は、ここで事実を捻曲げて逃げてしまい、生涯そのレベルにとどまります。
石舟斎が凄まじいのは、「自分が強くなること・真の理を得ること」に対する執念が、自己の面目や立場への執着を遥かに上回っていた点です。この「自分の小ささを直視できる圧倒的な坦懐さ(素直さ)」があったからこそ、彼は信綱の高度な理を吸収し、後に「無刀取り」という前人未到の境地まで自らを高めることができたと言えます。
3. 歴史に見る「素直に頭を下げられた者」の強さ
武術史や歴史を見渡しても、真に時代の体系を塗り替えた人物は、例外なくこの「素直に頭を下げる胆力」を持っています。
勝海舟と坂本龍馬:
龍馬は海舟を斬るつもりで訪ねましたが、海舟の世界情勢の開明的な話を聞くやいなや、その場で刀を収めて「弟子にしてください」と頭を下げました。
武術における出稽古の思想:
他流試合で打ちのめされた時に、相手の理を素直に認められる人間だけが、自流の限界を超えて新しい理を統合(体系化)できます。
「師の権威に縋る乳飲子」にならないためには、まず自らの未熟さや敗北を一切の言い訳なしに受け入れる「無の心境(素直さ)」が必要不可欠です。
石舟斎が見せたあの瞬間の決断と胆力こそが、柳生新陰流という巨大な体系を生み出すための、本当の出発点だったのだと感じさせられます。
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この、上泉信綱の弟子は疋田文五郎だけで無く、多くが自流派を立ち上げて大いに武術史に大きな影響を与える新陰流の流れとなるわけです。
その中でも私は疋田文五郎が好きなのですが、まぁこれは岩明均氏の「剣の舞」と言う短編の影響が大きい。
今回は体系化と言う枠組みの功罪の話しでした。
そして、その功罪を乗り越えてきた歴史は武術と言う分野の常道であるんですよね。
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