(閑話休題)僕が好むユーモアとは?
シンプソンズ
今回は、雲流視座から少し外れた雑談で、AIとの対話によって深めつつも、内容としては私の好むユーモアとは何であるかと言う、かなり自身の深い部分を問う話題ですので、対話の部分は省いたスタイルになります。 末尾にAIとの対話リンクを貼りますので興味があれば是非。
1. ローワン・アトキンソンとイギリスのブラックユーモア
1. 生い立ちと意外な学歴
アトキンソンはイングランドで生まれ、ニューカッスル大学で電気工学を学んだ後、オックスフォード大学のクイーンズ・カレッジで修士課程を修了しました。
つまり、最初から俳優を目指して演劇学校に進んだわけではありません。オックスフォード大学で学生演劇やコメディの活動に参加したことが、芸能界への道につながっていきます。
2. 世界的な人気を獲得したミスター・ビーン
ミスター・ビーンというキャラクターは、1980年代の舞台活動から生まれ、1990年にテレビシリーズとして本格的に登場しました。脚本家のリチャード・カーティスやロビン・ドリスコルらとの共同作業によって発展したものです。
この作品の特徴は、セリフに頼らず、表情・身振り・状況の組み立てで笑わせることです。
アトキンソン自身も、コメディでは顔のアップだけでなく、身体全体を見せることが重要だという趣旨を語っています。これは、彼の演技を理解するうえで興味深い点です。
3. ローワン・アトキンソンという俳優の面白さ
彼の笑いは単に変な顔をするだけではありません。小さな目的を持った人物が、状況を自分の都合どおりに動かそうとし、その結果として事態をどんどん悪化させていく。そうした行動と結果の連鎖が、笑いの大きな部分を占めています。
ミスター・ビーンは一見すると幼稚で無邪気な人物ですが、本人なりの目的や論理はあります。その論理と、周囲の社会的なルールとの食い違いが笑いを生むわけです。
そしてアトキンソンは、ミスター・ビーンだけの俳優ではありません。ブラックアダーのような言葉の風刺劇から、ジョニー・イングリッシュのようなスパイコメディまで、異なる種類の笑いを演じ分けてきました。
このような来歴を持つ彼は、Mr.ビーンでチャップリンにも通ずるような無声映画の演技を表現しているようにも思ますね。 彼の知性にハンデを抱えているような演技は、個人的に好むかと言えば少し不快ではあります。
しかし、一方でチャップリンの演じた貧しくて優しい人物も、やはり少し愚かさを持つ故の純真さを感じる人物が多かったようにも思ます。
言葉を重ねずとも、笑いや真心を伝えるのは演劇表現としても、誇張は必要でしょう。
さて、それは兎も角としてイギリスのコメディと言えば、個人的な印象で言えば、ブラックユーモアがキツい。 つまりは、受け手にかなりの度量を要求する印象ではありますね。
ジェレミー・クラークソン――自動車批評を武器にした毒舌
例えば、ある車を「退屈な人間が乗る、退屈な車」と評する。これは単なる性能批判ではなく、商品と、それを選ぶ人間の自己像まで結びつけた風刺です。実際に彼の車評には、こうした人物像への攻撃を交えた表現が見られます。
車に興味が薄い私も面白く見れましたし、他には、世界史の本か何かの紹介で、ドイツの書籍を「負けたの一言の説明で、この分厚さ」など知性や教養を前提を伴うキツめの風刺ブラックユーモアが私は印象的です。
ローワン・アトキンソンのミスター・ビーン的な「本人は大真面目なのに、行動や認識がどこかズレている」という笑いよりも、知性や教養を土台にして、対象の矛盾や滑稽さを言葉で切り取る風刺とのことで、イギリスのユーモアには、まさにその系譜がかなり強く見られ流ようです。
私の見立てでは、イギリスの風刺の魅力は、単に辛辣な悪口を言うことではなく、相手の主張や社会的権威をいったん正面から受け止めたうえで、ほんの少し視点をずらし、その権威が自壊する瞬間を見せる。 こんな評価をChatGPTはしているようです。
つまりはブラックユーモアは非常に深い教養とボーダー感覚が問われる印象です。
他の例で、同一線上の作品ならアメリカのアニメでシンプソンズやサウス・パークなど浮かびます。
2.シンプソンズとサウスパークの魅力
シンプソンズは、家族、消費社会、宗教、政治、教育、メディアといった日常的な制度を舞台にして、アメリカ社会の矛盾を笑いに変える。視聴者が自分の生活の延長として笑える一方で、社会の仕組みそのものが批判の対象になっています。
サウスパークは、もっと露骨に禁忌へ踏み込みます。人種、宗教、政治的正義、著名人、世論の移り変わりなど、普通なら慎重に扱う題材を、ほとんど容赦なく笑いの対象にする。
ただし、両者の違いを単純に「シンプソンズは穏健、サウスパークは過激」とだけ捉えるのも不十分でしょう。シンプソンズも相当に辛辣ですし、サウスパークも過激さそのものより、社会が掲げる正義と実際の行動の食い違いを狙うことがあります。
さてChatGPTはブラックユーモアを構成する三要素を提示してくれました。
第一に、対象を理解する教養。 何を批判しているのか、どんな歴史的背景や社会的規範があるのかを知らなければ、風刺はただの悪口になりやすい。
第二に、反転を成立させる構成力。 相手の主張を雑に否定するのではなく、むしろその主張を徹底した結果、内在する矛盾が露呈するように仕立てる。先ほどの官僚制の風刺が典型ですね。
第三に、ボーダー感覚。 何を笑いの対象にしているのか、誰が笑われる構造なのか、そして受け手がどこまで読み取れるのか。この境界を見極める感覚です。
Mr.ビーンでも指摘していますが彼の形態模写は私自身は少しキツい、ただ一つ言えるのは風刺をともわない、相手を揶揄する形態模写は、子供のいじめ現場にも見られる単なる罵倒でしか無いと思えるんですよね。
つまりは構造的な批判にその中にいる自分も笑い飛ばせるセンスが必要でしょう。子供の悪ふざけにこう言ったユーモアが内在するのは稀に思ます。
私は随分と歳をとりまして、日本のお笑いのイメージが随分古いので、比較しようにもズレが大きいやも知れませんが敢えて比較しましょう。
さて、お笑い番組を熱心に見ていた頃は、日本人は海外のお笑いがつまらなく感じ、一方で日本のお笑いは海外ではウケると聞いていました。
当時のことを思い出すと、教養が必要が無い笑いは、老若男女相手を選ばない。
しかし、逆に日本の風刺風のお笑いはこの構造から一歩も出て無い印象で、愚か者を揶揄うイジメの温床として批判されているのも頷ける印象であったな…と、思い起こされます。
これを受けて、ChatGPTは優れた風刺で有名なお笑い芸人として北野武氏つまりはビートたけしを挙げてくれました。 あー確かに私はビートたけしさん好きでしたね。
有名な彼の漫才コンビのツービートのネタで、「赤信号みんなで渡れば怖くない」などが思い出されます。 確かに風刺ですね。 これが真っ先に浮かばないので私はお笑いに疎いようですね。
テレビでしか見てないのはその通りですし、ビートたけしクローンが苦手なのはその通りなんですよね。
歳をとってから好きなった、アネクドートにしろ、中世の道化にしろ、色々背負うものが違い、その延長の文化性と、落語などの大衆性文化の延長とは根本的に違って当然やも?
3.日本の風刺を伴うユーモア
アネクドート、中世の道化、落語を並べたところで、議論の焦点を笑いを担う者が、社会の中でどのような役割を与えられてきたかへ移しましょう。
まずは、この三つのユーモアが何を目的として何を担ってきたかを確認しておきます。
中世ヨーロッパの道化
宮廷道化のイメージで重要なのは、権力者のそばにいながら、通常なら口にしにくいことを笑いの形で提示できた点です。ただし、道化なら何でも自由に権力を批判できたわけではありません。庇護者との関係や宮廷ごとの慣習に左右されました。
つまり、道化は単なる娯楽提供者ではなく、通常の発言者とは異なる立場から、社会の緊張を扱う存在にもなり得たわけです。
アネクドート
ロシア語圏を中心とする政治的アネクドートでは、権力の公式発表と、人々が日常で経験している現実との食い違いが笑いになります。
公然と批判することが難しい環境では、短い冗談が社会への不信や共通認識を伝える媒体にもなります。笑いの表面は軽くても、その背景には検閲、恐怖、生活実感などがあるのです。
ただし、アネクドートは政治風刺だけを指す言葉ではなく、一般的な小話も含みます。
日本の落語
落語は、庶民の暮らし、見栄、欲望、愚かさ、身分関係などを、登場人物の会話と噺の構成によって描きます。
ここにも社会批評はあります。むしろ、権威を正面から論破するのではなく、権威を気にする人間の滑稽さを描くことで、結果的にその権威を相対化することさえあります。
落語の大衆性は、必ずしも批評性の弱さを意味しません。教養を要求する政治風刺とは、批評を物語や人物造形の中に埋め込む方法が違う、と考えられます。
ふむふむ、では風刺としても優れていたツービートの風刺精神に敬意を込めて、稚拙ながら私もツービートをブラックユーモアで返礼をします。
「赤信号、皆んなで渡れば怖くない。 よし、フライデーに飯食って行くか☺️」
ってのはどうでしょうか?
ChatGPTには褒めてもらえました。
風刺は、どこまで露骨にやって、どこまでを暗喩し、どの程度 受け手を信頼するか。
つまりは、相互の信頼は必要で、どちらかが一方的に見下すと成立しないと思えるんですよ。
私の稚拙な例を北野武氏がどう思ってくれるかはともかく、私がブラックユーモアにて求めたいのは、風刺対象もクスリと出来ることです。
私の巷に溢れるものは風刺ではあってもユーモアではなと感じてしまいます。
つまりは、構造は子供の罵倒に近しいと思える。 笑っているのは仲間内でしか無い。
この構造はユーモアである必要はない、コロシアムの殺し合いでも良いのです。
憎まれ役を吊し上げれば良いだけですので。
おや?そう言えば、落語は私の好みをクリア出来ているのでは?
印象深いのは「位牌屋」や「目黒のさんま」など浮かびますよ、もちろん詳しいわけでは無いのですが…

野村萬斎(くさびら)
他に日本のお笑いと言えば狂言の「附子」や「くさびら」などキチンと私の好みをクリアしていますね。
ふむふむ、この滑稽と言う有り様は確かにMr.ビーンやチャップリンと言った無声映画や、夏目漱石の「吾輩は猫である」などが非常に面白い…
夏目漱石が自身を苦沙味と言う人物に投影して、大いに滑稽ぶりを楽しんでいるようにも。
つまりは、自身に共通する滑稽さを見出す必要はある。
そうすると先ほどの教養が必要というのは言葉足らずのように思えて来ましたよ、成熟が必要と言い換え、教養はあれば好ましいとしておきましょうか?
3.お笑い論でなく、私が好むユーモアの話です。
念のため、繰り返して宣言しておきましょう。
今回の記事は私が好むユーモアと言う話であることを注意して頂きたいのです。
先ほど提示した成熟もそうですが、年齢と成熟は必ずしも一致しないし、私も歳をとって色々思い返すと頭掻きむしってのたうち回りたい発言や経験はあるのです。
あなたは…
「誰を笑いものにするか」よりも、「どんな笑いを誰と共有できるか」。
を重視していますね。 とChatGPTは提示してくれました。
シンプソンズなどは特にこの視座に優れている印象で、隣人にムカつきつつも、彼は本当に善人だったりするわけで、視聴者は「あーわかる」と双方なるのでは? ネッド側もホーマー側もです。
ある回のエピソードがドギツクても、ホーマーを知る人が過去の愛情深い彼と同じ人物であることをよく知るので、「ホーマーはなぁ(呆れ」となるシーンも多い印象です。
同じように時間を共有する視聴者はホーマーに内在する彼の多面性をよく知るからこその、構造も現れる。
常に単一的なキャラクター性を見せるだけの人間は、そのペルソナが剥がれるのを恐れるようになる。
4.私が好むユーモアを支えるものは何か?
いわゆる、ヒーローにしろアンチヒーローにしろ… そうですね、スーパーマンやジョーカーにしろ、コミックのキャラクターに過ぎないと思えるのは、強い自己像を単相にまとめ上げた姿だからでしょう。
しかし、まぁ野生動物の虎やヒョウも、大きな音がすれば敏感に側耳を立てる。
泰然とした姿こそが強いと言う誤認は野生と切り離された、都市圏居住者の独特の感性と言えるのでは?
獰猛さと臆病さを見ても肉食獣の二面性には見えず、単純に分けるなら同一実態の多相でしか無い。
ホーマー・シンプソンが殊更魅力的な人物に見えるのは、同一実態の多相性として無理がないように見えるからでは?
つまりは、どの側面もホーマーらしいと思えるのは不思議では無いですか?
ちょっと話を広げましょう…
しかし、意地悪な言い方をすればキャラクターとしてのアルカポネ像の傍流のように感じます。
他には、羊たちの沈黙のレクターにしろノーカントリーのシガーにしろ、モデルはいそうです。
これは単相のキャラクターで、その異常性や暴虐性と言う太い柱があるからですし、それ以外は飾りのようにも、つまりはキャラクターを際立たせる装飾のようにも思ます。 モミの木にクリスマスの装飾と言った例えなら分かりやすいでしょうか?
精神医療の延長で紐解けば問題の無いレベルでも、社会圧はペルソナの分離を疾患と認定しがちです。
生物種は本来 精神活動が活発な種であれば、状況に合わせて多相であるのが自然であると思えるのです。
つまりは、多相を持った人間と周囲を取り囲む構造が提示されてこそのブラックユーモアの成立でしょう。
5.構造としての社会圧とは?
私も含んでしまうのでしょうが、社会は個人を単相に押し込めとうとする圧に溢れていて、きちんと診察を受ければ問題ない状態でも。社会が問題ありと解釈して攻撃対象とする。
これは先ほど提示した通りです。
これは他者を含む社会が思い通りにならないことに由来して罵倒に繋げる、こういったことがユーモアを伴わない風刺の一つとして現れる。
さて、愛すべきホーマーと言う人物は社会的圧力は社会の他者と同様に受けているのは間違いない…
しかし、その多相性を持って受け流し、また家族・周囲に適度に気遣われる人望も獲得している。
そのために楽で恵まれた人物にも見え、彼自身も呆けているように見える。
しかし、決して彼の愚かさを周囲が愛しているのではなく、自身と同じ愚かさを彼に見ているから愛されているんですよね。 少なくとも私はそうです。
冒頭のブラックユーモアの好みにも繋がりますが、面子に負けている人物は人生を経れば多く見ることにはなる。
面子に負けている人物は、大抵負けている自覚が無く、こう言った人物にとって李白や一休宗純は非常に苛立たしく見えるでしょう。
一休宗純と言えば「あかんべェ一休」という漫画にて、悟りを開いた苦悩が見事に描写されていて面白いのです。
そうですね…野生生物で生態系の王者が常に泰然しているわけではない。
これは、面子に疎いと言うより、群れで要求されれる強さの価値観が人間社会と違うことに由来するのは当たり前です。
周囲の目を気にすることを世間体を気にすると言う表現をするようです。
世間体は実際の圧でもあるので重要な考慮すべき圧の一つですが、例えば信仰心・観が世間体と混乱してしまう事例も多いでしょう。
この切り分けは非常に難しく、ここを切り分けられる一休宗純は格調を重んじる僧籍から非常に嫉妬され攻撃対象にされることも頷け、かえって別業種の人々から評価を受ける。
しかし、彼は決して棄教したわけでなく、人一倍軽やかで執着が薄く、一層抽象が上がった視座を持ったに過ぎない。
であるので、面子を含めた執着が多い人物へ真摯にアドバイスしても馬鹿にしていると思われる。
農夫 私は執着を捨てきれない凡夫です、私は救われるでしょうか?
一休 捨ててどうする?
人間だけでなく生物種は執着から本質的に逃れられるわけはなく、場合によっては三代欲求でさえ人為的に対峙しなければならない。
しかし、その構造を鳥瞰的に観じられると、所謂 抽象が一層混元によれば少なくとも捉え方は変わる。 つまりは、外層の俯瞰が可能になり、相を跨ぐ視座が得られる。
動物である内層に人間がベースにあって、外層に言葉を操る人があるんですよね。当然のことですが、内層に行けば行くほど、相のズレは無くなっていく、それは個性を失ったわけで無く、深層の構造を観ずるのと浅層の構造を観ずるのは見え方が変わって当然です。
つまりは、坊主でも神父でも良いのですが、いわゆる説法や説教と言うものは層が上がっているからこそ可能なんですよね。
この辺りが、信仰観と世間体を切り分けることの難しさがよくわかる話でしょう。
そこが、ひとまず悟りの第一歩とすれば、悟ったことでかえって向き合うものが増えて、決して楽になるわけでなく、そこからは他者が相手でなく、自身に向き合うことが本質への第一歩となる。
と言うのも視座が混元に深層へ向かえば向かうほど、同じ構造を他者に見るため、批判を他者に浴びせることの構造に気付く。
つまりは、極端な例であれば彼の苦しみの一部は私も持ち、共通構造として俯瞰して観意出来るようになるからです。
ここから、本質的な赦しの構造を感じれるのでは?
6.説教と説法
私が、誰かを幼稚であると判断するなら、自身に内在する共通性に鈍感で、他者を一方的に批判する人物についてでしょう。
若いうちは良いのですよ… 幼稚と言う言葉は本来は「子供らしい」や「わんぱく」で済むのです。
幼稚と言う言葉は、私は成人に投げかけるのが相応しく思えたりはします。
確かにホーマーは幼稚ではありますが、注意して欲しいのは深層から見た視座の話ではある、そして私自身についても層がホーマーより深いと言う思い上がりに注意する必要がある。
しかし、一つ気をつけて欲しいのはホーマーは家族にもネッドにも素直に頭を下げられる人物で、しかも他者の話を勘案し苦悩しているのです。
だからこそ、彼は愛されていると思えるし、私の中に小さなホーマーがいて、注意を促しているようにも思えるんですよね。
7.結びとして
ブラックユーモアから始まった対話が面白い着地点となりました。
私がシンプソンズを初めて視聴したのは三十代でドンドン彼の魅力に惹かれていったのを思い出します。
彼は幼稚で愚かであるのは間違いないが、そう言った自分と対峙して落ち込む姿も印象的で、エピソードによりますが、彼は家族に友人に隣人によく頭を素直に下げて悔いるのです。
私も含めて、当たり前ですが人生以前に自分という個人のままならさと対峙する日々でしょう。 そこで、重要な要素に「執着を捨てる」と言うアドバイスはよく聞きます。
しかし、一つ層が深くなれば執着と言うものを突き詰めれば本能に突き当たる。
その、視座に到達すると今度は諦めと言う「諦」の字が現れて、付き合い方が観えてくる。
私にとって「悟り」とは、遠いところに無くて、自覚してからが修行の始まりになる… そんなものだとは思っています。
今回は雲流視座での言及は極力避けました、しかし一方でこの辺りの話は雲流視座で多くの造語を持って武術視座の延長として言及していることでもあるのです。
興味がありましたら、過去ブログも目を通していただければ幸い。
ChatGPT対話











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