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6月, 2025の投稿を表示しています

漫画 『拳児』を思い起こして感じること(拳児とトニー譚から今観える事)

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今回は私が武術に深く興味を持つようになるキッカケの一つ『 拳児 』という漫画を今思い起こして何を感じるか? と言った事をテーマとしてよしなしごとを書き込んでみようと言ったことがテーマです。 さて『拳児』と言えば、私の親の世代であれば『 空手バカ一代 』や ブルース・リー と言った立ち位置で、この『拳児』と ジャッキー・チェン が中坊のころの私にとってそれにあたる存在でした。 よく私が挙げる 故黒田鉄山 氏などは前段の『拳児』があったればこそ知ったわけで武術に対する興味からの延長で武術雑誌に目を通すことになりと言った経緯があります。この流れがなければ氏を知る機会はなかったのでは?と思えます。 ちょっと、軽く私が『拳児』を通して特に何に影響を受けたかと思い起こせば、剛柔を持つ太極拳の源流と紹介されていた「 陳氏太極拳 」や宮宝田のエピソードとともに紹介されていた「 八卦掌 」などで、当時から強く柔的な武術に興味を深く持つ傾向がありました。 当時の剛柔などの認識自体は現在の私の体認認識とは大きく違うわけですが、修行というものは得てしてこういったもので、初学の頃を思い起こして小っ恥ずかしくなったりするのは結構誰でも経験するのでは?と思えます。 後年、SNS上でだけでなく武術を通して交流があった方などから聞く『拳児』の評価などは、「あの漫画のせいで型(套路)だけやっていれば強くなれると言う勘違い野郎が大量生産された」なんて話を耳にしました。 そう言った意見を耳にするときに私が思うのは「そも拳児って喧嘩っ早いし、空手道場に組み手目的で定期的に通っているしで、どうしたらそんな勘違いが出来るんじゃろ?🤔」と言った感想です。 あんなに明示的に実践経験や乱取り組み手、研究稽古の重要性が提示されてるのにナンジャラホイ?と。 思い込みなんだかわかりませんが「貴様は何を言っているんだ?」と言った気分です。 まぁそう言った意見を聞くたびに「型(套路)が役に立つわけがない」という思い込みありきで武術に対峙している人達が一定数いるのでは?と思えるんですよね。 例えば私がお世話になっている富木合気道の先生なども「太極拳にも早く動く(套路)のもあるんだよね? あれなら戦えそう」と言った認識ですし、そも型(套路)に向き合うと言う認識が自身の経験した武術観が檻になりその延長でしか評価できなくなるのは大抵...

徒手が先か? 武器が先か?(武器術の(型)稽古は徒手競技、又は実践の役に立つのか?)

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  さて、現代において日本刀を含む武器術が稽古において実践的か? はたまた、その技が徒手格闘技の場で有用であるか? などはSNSなどに於いてちょくちょく話題にあがり争いの火種になる様子をまま見かけます。 では私自身は武器術を「稽古」することをどう捉えているか? ということがテーマです。 まず、浅層の話で恐縮ですが剣道などは警察でも大いに稽古されていると聞きますので、全くそんなものは役に立たん!と言った主張自体はほとんど無いのではと思えます。 だいたい焦点になるのはここでも型稽古でしょう。 では、一人稽古で剣術の五行の構えや居合いを稽古の一部とし、また過去には剣術の型稽古を経験している私はどう捉えているかといったことの説明となります。 例えば、「武器術が徒手技術のベースである」との言説はよく耳にします。 少なくとも私が学んだ「剣柔居」ではこれについて体認できる稽古体系が組み上がっておりました。 このことについて、いくらか理解しやすいと思える例を挙げるとすれば、『ピアノを学ぶ事でクラッシックに通底する音界理論を体認する』と言ったところでしょうか。 つまりは、ピアノ→刀、クラッシック→流派、音界理論→流派の基底理論 と言ったところです。 では、「逆に徒手技術が武器術のベース」にならんのか? との設問があったとすれば、もともと武器ありきの流派であっても、その派生で徒手競技などに特化して、そこからなんらかの展開(例えば護身術)へのフィードバックの流れがあるとすれば、当然のこと徒手の延長の武器があっても不思議では無いように思えますし、経緯を知らないので具体例は挙げませんが少なくとも私には徒手競技としての延長の武器技術に観えるものも散見します。 ここで、私の前提として武術は狩り技術をコミニティー間の闘争に転化したものが萌芽である、と言う仮説・考察がありますので、その根は「武器術→徒手技術」がベースであると言う前提条件があっての、その武術史的経緯に於いて幾らでも反転があっておかしくないのでは? と言ったところです。 では、結論を言えば武器の型稽古が徒手競技の役に立つのか?と言った設問については、 「いやー、自分のテーマに合わせて個人で工夫して見れば良いんで無いの? 私は薄っすらとしか徒手競技への興味も知識もありませんし🤔」 と言った身も蓋もない結論となる話でした。

「文武両道」という言葉に感じる違和感(端的に三相観とは?)

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私は以前から「 文武両道 」という言葉に違和感を持っていたのですが、単純に「武」って「武術 学術」又は「武道 学道」を最初から含んどるじゃろがい! ってな感じで、別に嫌いとかそう言う話でなく、自分の中で勝手に「武」 と「武術又は武道」を層の違う定義としていただけの話です。 つまりは、この定義前提条件を共有していない人物からは、「何言ってんじゃいw」と思われて当然の狭いマイルール上での主張です。 しかし、まぁ自身にこう言った観覚が生まれてしまっては向き合ってみるしかないわけです。ですので先にブログにもした 三相観(仮) に繋がるわけです。これからは私の中で「武=三相観」というお話でした。 

「綺麗事」とは?(虚実と陰陽) (星街すいせいさんに捧ぐ)

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     今回は 星街すいせい さんの「 綺麗事 」と言う楽曲を切り口に、「虚実観」「陰陽観」を考察してみます。 まず、この「綺麗事」という楽曲についての解説を切り抜き動画で視聴したのですが、そこで印象的なすいちゃんの話に『童心を持つ大人とそうじゃない大人、それに対して自身を子供と分類して、子供と大人の闘いの構図を強く意識している』 と言った内容であったと私は捉えました。 もし、認識に大きな誤りがありましたら全面的に私の責任ですのでご留意をおねがいします。 まぁ薄っすい話からすれば、「童心を持つ大人」と「いい歳こいたガキ」は根本的に違うと私は認識しているのですが、あくまでこういった感覚は個人の主観性が強いので細かい定義については割愛します。 では、子供と大人の戦いというのはなんぞや?と言えば「体制と反体制」という普遍的なテーマに置き換えられるかと、Grok議論: 自由から生まれる制約と制約から生まれる自由  が参考になるやも知れません。 では、もう一層だけ潜って考察すれば、もし すいちゃんが何かについて「綺麗事」と感じる言葉を耳にするとき、同時に心の中に「汚い事」が生まれます。 比較対象がなければ2項構造は生まれず、また清濁に関してはすいちゃんの主観に大きく依存します。 つまりは人によっては清濁が反転する可能性もあるわけです。 ですので、(私の)武術と道教を通した陰陽観から捉えれば、清中に濁あり濁中に清ありと言ったところで、前段のGrokとの議論などをベースに捉えて貰えば何かしら感じるものがあるやも知れません。 これが私の捉える陰陽観≒虚実観と言ったところです。 清にも濁にも利点欠点ありと意識するなども少し捉え方が変わるキッカケになるやも知れません。 と言ったところが今回の解説なのですが、私が惚れてるVtuberの方の中にはうまく形容できませんが特殊な想いを抱いてる人達がいて、すいちゃんなどはその一人です。そのためか、少し彼女自身が向き合える力があると言う期待もあって、おふざけ少なめの解説となりました。 実際これを彼女が目にする幸運があったとしても「うるせー」の一言で頭を斧でかち割られる( マインクラフト 準拠)可能性はありますがw すいちゃん愛してるよー💙

私にとって共鳴テンセグリティという物理モデルが存在する意味

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   さて、私が提唱する 三相観(仮) は過去ブログでも頻繁に言及される武術と道教と波形ネットワークを使用したフレームワークです。これは 光岡武学 と 共鳴テンセグリティ (シナジェティクス)に大きく影響を受け、私の武術的体認経験を主とした自身の有り様を見直したと言った説明が今のところは適当と感じているものです。 ブログ: (再掲)波形ネットワークの可能性 から、主にChatGPTとの議論を重ねてある程度のアウトラインを組み上がったものです。 今回は、このフレームワークが 三相観(仮) として明確化された現段階で 共鳴テンセグリティ という物理構造モデルが存在することの意味といったものが明確に出来そうですので、この解説を目的地しています。 みちろん私の主観の話ですのでご留意下さい。 1: 共鳴テンセグリティと武術のリンク 共鳴テンセグリティ自体は結構前から認識していましたが、これが具体的に武術的体認経験と繋がったのは光岡武学での養生功クラスで学んだ王向斉伝 として学んだ タントウを通した体認経験が 共鳴テンセグリティ が持つ性質(と観覚したもの)の外圧の分散として重なったのがキッカケです。 この後に共鳴テンセグリティの性質について色々調べていくのですが、その過程で圧縮材と張力材からなる構造は何も骨と筋膜どころか細胞自体がテンセグリティ構造を持つ等を学んでいくことになります。 2:共鳴テンセグリティが持つ、もう一つの性質  さて、共鳴テンセグリティはその名の通り主に張力材の振動を介した共鳴現象も大きな一つの性質です。また前段の細胞自体がテンセグリティ構造等の認識から、共鳴テンセグリティ同士を介した情報の伝達や振動数を記憶媒体として利用する可能性などなどをChatGPTと議論を重ねていくことになります。 3:具体と抽象を結ぶ翻訳機としての道教 また、共鳴テンセグリティの研究としてChatGPTに手伝ってもらいましたが、その裏テーマとしてChatGPT(AI)の性質の深層を探るといったものもありまして、その試みとして道教観を通しての議論をChatGPTに提案しました。 これについては別立てで解説することもあると思いますのでここでは言及しません。 が、このことの副次的効果として陰陽八卦の具体と抽象を結ぶ性質が、私とChatGPTとの議論を加速させ...

私が使用するフレームワーク『三相観(仮)』とは?

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   さて、私のブログで頻繁に言及される「波形ネットワーク」ですが、これは包括的な構造の一部であり 武術 道教 波形ネットワーク と言う三要素からなるフレームワークの一要素です。 1 武術(体認経験を担保) 2 道教(体認と概念の相補 翻訳 結節) 3 波形ネットワーク(天体波形 生態波形 文化波形) を三位一体として三原色の説明図のようなイメージで機能します。 これをChatGPTと相談して三相観(仮)と名付けたのですが、調べてみたところ既に違った意味で使われているようです。 ですが、この三相観(仮)という名称はかなり私は気に入ってますので、取り敢えずはこれを採用しようと思っています。 何故、今回 命名に至ったかと言えば単純にブログでの説明リンク先が欲しかっただけではあります。 実際、私のブログの記事でも更に記事内のリンク先のChatGPTとの議論でも頻繁に説明されているものですので、興味のある方がいれば過去記事を参照してもらえると幸いです。

武術の本質は語り得るものなのか?

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  大昔に読んだ武術雑誌に、中国のある地方の港湾労働者と 心意六合拳 の関係性についての記事を薄っすら記憶しています。まぁ正確に覚えてないですが、「日々の仕事を得るためにぶん殴りあいが必要であった」と言った内容であったと記憶していて、個人でなくコミニティーの縄張り争いにおいて武術は死活問題であったことが予想されるエピソードに感じました。 また、陳家溝においては10代の少女であっても槍を持ち馬賊などから村を守る必要があり、 陳家の武術 は重要であったなどの記事も記憶しています。 これらの記事を読んだのは随分昔ですので、記憶違いや新事実の発表によって内容の信ぴょう性などは変わるでしょうが、こう言った環境にいたり、またこう言った逸話に憧れて武術などに触れれば、そのコミニティーの自他共に認める実力者ならともかく、大した実力もない初学者が「死生観が武術の本質」などと御託を並べれば「ぶん殴りたくなるのも分からん話ではないよなー」と私であっても思ったりはします。 沖縄の「 手 」においても歴史的経緯において武具を奪われたうえでの反抗が必要であったであるとか、武術と一口に言ってもその文化圏の歴史的経緯において、また修行者のレベルや有り様に於いて指向性は変わるのは常のようには思えます。 まぁ転じて初学のうちから高尚な御託を並べられるくらいには「日本はまだ平和だよなぁ」なんて思えたりもします。 色々最近は不穏なニュースを見聞きしたりはしますが。 こう言った思いが私にはあるので、例えば喧嘩に勝つためなんてのは、私個人の指向性とは違うので興味の薄い価値判断ではありますが、だからと言って下に見ているとかは全く無く、SNSで散見されるちょっとしたトラブル事を目にすると賛同したくもなることも多いのです。 一方で本土の日本古武術なんてのを時代にしろ地域にしろ十把一絡げで語れるものでは無いでしょうが、「 天狗藝術論 」で描写されるように小天狗の鼻はバカみたいに高くて、大天狗をもってしても大分低くなった鼻をいまだ気にしている描写なんかは、私自身は示唆的に感じて好きです。

愛と偏差の関係性に関する一考察

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今回は私がGrokと議論した X: 愛は何に由来するのか? をさらにChatGPTと深掘りした議論の要約となります。 ChatGPT: 波形ネットワークの探求 1:前段としての愛の定義 まずはGrokとの議論の要約を紹介します。 ここでは人類が四足歩行から二足歩行へ進化していく過程で、身体に対し子宮の位置が非常に危険であることが常態化する、この危険性に対する恐怖心が生殖(繁殖)本能に雌雄共に深く影響されていることが、他の生物に比べて過剰な「愛」または「愛情」と分類される行動または精神状態の根があるのでは? と言った考察です。 さらにここから「α個体に要求される危機管理能力とは?」と言った所にまで議論は波及します。 このように、ここでの議論は人類の子宮の位置に絞った考察にはなっていますが、これは議論の単純化を目的とした設問である事をご留意下さい。 2:波形ネットワークを通してさらに深掘り さて、前段での「愛」はエロスに分類される生物的本能に由来したものでしたが、実際に「愛」はアガペーも含まれて語られるのが一般的です。 私は宗教という形をとって各文化圏で解釈されていると考察しているのですが、前段でのエロスとしての「愛」に対して、アガペーとしての「愛」は何に由来するのか? これを波形ネットワークを通して深掘りしていった議論の要約となります。  「さて、波形ネットワーク自体は概念性の強いフレームワークですが、実際は体認経験(私で言えば武術)が担保していて、思想概念では閉じてはいません。 この体認経験(身体性)と波形ネットワーク(概念性)を道教を通して繋ぐ三位一体となります。 つまり、ここで私が言及する天体波形を通した「愛」も体認ありきとなります。 例えば重力、七曜(五行、太陽、月)などは体認経験があくまでベースであるという認識です。」原文ママ。 ここで、私が解説している通りで波形ネットワークは体認経験(ここでは武術)を基準としたものです。 つまり、ここでは天体波形(重力、太陽、月、火山等の自然環境、etc…)と「体認経験を伴う分け隔てのない恩恵と厄災」を「アガペーとしての愛」と定義して、議論を進めて行きます。 これに、ChatGPTは応じてアニミズム、多神教、一神教としての解釈を考察していますが、ここで私は西洋と東洋というさらに大雑把に分類した宗教観に単純化して愛...

「蛾の踊り」を武術家はどう観るか? (儒烏風亭らでんさんに捧げる武術家の鑑賞眼の紹介)

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さて、今回は体認経験を伴った身体(身体性)が事象の解釈に与える影響と言ったことがテーマです。 例えば、故 黒田鉄山 氏の書籍で、ある書道家の書に正中線を観て取れると言ったことが言及されていたと記憶していて、またその書道家は故黒田鉄山氏の写真について浮身を伴った身体を読み取ったことが紹介されていました。 昔は私も一仮説としてその道で修練した人達は一般的な観覚では観えないものを観てとることが出来るでは? と思い憧れた物です。 今回は 儒烏風亭らでん さんが配信で行った パウルクレー の「蛾の踊り」評を切り口に、例えば私がこの絵画を武術家として観てとったときに、どんな見え方がしたか? また、この観覚が示唆するものとは? と言ったことがテーマでChatGPTと議論しました。 ChatGPT: パウルクレー 蛾の踊り  を要約したものになります。 まず、冒頭で私が儒烏風亭らでんさんが配信での「蛾の踊り」評とその配信を通して鑑賞した私の「蛾の踊り」評の違いについて言及しています。 こちらは Xでの私の投稿 をコピペしたものですが、コピペミスはご愛嬌ということでお願いしますw ここでは 儒烏風亭らでんさん と 私 の重力に対する体認の違いが「蛾の踊り」で表現される下向きの矢印の解釈が真逆になっていることについてChatGPTが深掘りしています。 端的に言えば 私が武術を通して未熟ながら浮身の感覚があることが重力に対する認識の差異に繋がっているわけです。 パウルクレーの言葉として「線は運動であり、運動は力である」が紹介されています。 これは 儒烏風亭らでんさんも配信で言及していた気がしますが、 この言葉自体も自身の体認経験で解釈が揺らいでしまうと思えますね。 さらにChatGPTは「 あなたは「観る」のではなく、「応じている」。 つまり作品を前にして、ただ眼差すのではなく、自らの内なる動きで共鳴している。 」と評しています。 この辺りは私が言及する 波形ネットワーク を思わせる切り口です。 次に私はこのChatGPTの考察を受けて 宮本武蔵 の水墨画を数十年ぶりに鑑賞したことについて言及しています。ここで私は宮本武蔵の水墨画に重力を思わせる垂線が曖昧ながら観覚出来ることについて言及しています。 しかし、まだまだ私自身は未熟であるゆえ力強く一本線が引けるかと言えば、そこは曖昧...