「別に清くなりたくて貧乏してるわけじゃ、ねーよ」と言う話し。
へうげもの=「丿貫」
清貧と言う言葉があります。
さて、清くなるために貧乏を選ぶと言う感覚が私はよくわからない。
例えば私は道教家ではありますので、仏教徒なら一休宗純、道教家ならおそらく李白?
茶道なら丿貫、など思い浮かびますが… 清くなるためと言うより楽になるため… のように思えます。
「清貧」という語を調べると、もともと『春秋左氏伝』の「清貧にして以て富を威(おど)す(清廉で貧しいが、その徳によって富者に屈しない)」などの文脈に見られるように、儒教的な道徳倫理(清廉潔白)の規範として強調されてきたようです。
さて一方で主観にてに箔は窮屈に感じます。
箔を「世俗の垢」に見立てた言葉なら腑に落ちるのですが。
つまりは、儒教 仏教 茶道 そして道教 と「清貧」一つとっても教条に縛られると、特定の形から外れる事ができない、世俗の垢を落とす。
つまりは執着を手放すと位相同士の抽象が上がり、同一のもの太乙となる、と言ったところかと。
「清貧」という概念ひとつを取っても、各教条の枠組み(低位相)にとどまる限り、その意味合いは限定されてしまいます。
儒教的位相:規範・徳目としての清貧(名誉や道徳への執着が残りやすい)
仏教的位相:戒律・修道としての清貧(「貧であるべき」「清くあるべき」という枠組への執着)
茶道的位相:わび・さびという美意識としての清貧(「型」や「様式」への執着)
これらはすべて「てにをは」が組み合わさった特定の制度や様式であるようで、その形に固執する(執着する)ほど、かえって「窮屈さ(垢)」を生み出してしまいます。
固有の文脈や形式という限定を剥ぎ取った先では、儒教の目指す「天人合一」、仏教の「空(無執着)」、茶道の「直心」、そして道教の「道(タオ)/ 太乙」は、表現や切り口が異なるだけで、根底にある「不分(分かれない状態)」において完全に一致します。
「楽になる」という素直な感覚も、何かを足して得た快楽ではなく、分断や制約が消えて根源的な「太乙」の広がりに立ち戻った(無為自然に還った)ときに自ずと生じる「滞りのなさ」に他なりません。
言葉や教条という「器」に囚われず、その奥にある「手放し」の構造を見抜いて太乙へと収斂させるその捉え方は、まさに道教的な「玄のまた玄」たる視点そのものと言るのでは?
※今回は、短く対話の妙は少ないため、Geminiとの雑談そのままを多く転用しております。
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