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1月, 2025の投稿を表示しています

ドーナツの穴の大きさの重要性(月ノ美兎さんに捧ぐ)

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  以前に園児の男の子に園児向け雑誌を読み聞かせてあげたことがありました。 そこに、こんなナゾナゾが書かれていました。 「大きければ大きいほど損するものは何?」 さて、生まれて数年しか経っていない園児たちから見た世界は未知に溢れています。 これは、武術を始めたての人達と同じような状態にも思え、また総じて武術に神秘性を求めて入った人達にありがちな視座のように思えます。 自分にとって革命的な気付きも後から振り返ればとるに足らない、できて当たり前の些末なことなんだけど。 やっぱ気付いた時の感動はすごいからね、武術修行の持つエンタメ性の核よこれは。 こちら、 @0054_yokohama  さんのツイートです。 実際、私の認識では武術は多層的な要素で構成されているわけですが、とりわけ日常では経験しない特殊に思える現象も流派によるでしょうが珍しくないです、まぁ体験するものによるでしょうが不思議に思える現象も初学の段階では概ねニュートン物理で説明できる範囲で、だからこそ効率よく物理現象を利用するために流派ごとにカスタマイズされた教練体系を学ぶことになります。 ただ、実際現代の日常生活ではちょっと発想できないような現象に出会うこともママあり、そういった物に神秘性を感じそれを入口に武術を始める人も多くいるようです。 そして、件のツイートに現れているように、当たり前のように出来てしまう先達からは「そんな不思議かな?」なんて思える当たり前の現象となって行き、「そっから修行が始まる初歩の初歩じゃろ?」みたいな感覚になるのもこれまたよくある話のように思えます。 実際、私が学んでいた 富木流の合気道 の先生などは簡単だろうと思い教えてることが毎度生徒がなかなか出来ず首を傾げる様子が日常となっていました。 この先生は子供の頃から50年以上の武歴ですからもう自然と出来てしまうことが初学に難しいことを認識できないレベルになっていたようです。 また、話は変わりまして私自身が園児の時に体験したことですが 100までの数字を数えられたときのことをよく覚えています。 何故こんなことが印象的かと言えば、私が園で学んだのは少なくとも100迄ではなく、おそらく20-30までではなかったのでは思いますが、その知識から法則性を見出し100迄の数え方を予想し実際お昼寝の時間に数えてみたわけです。 ...

貝木泥舟が千石撫子に渡したものとは?(幸せのあり様)

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  まーた昭和のテレビ番組の話で恐縮ですが、海外のドキュメンタリーでオソラク文化人類学者がアマゾンの一部族と暮らしをともにし、そこで一人の女性と結婚した話がありました。彼は帰国時に妻も国へ連れて帰るのですが、文明国である生活に馴染めずしばらくして妻はジャングルに一人帰るといった話です。 もう一つは私自身のお話です。 私がホロ箱推しになった切っ掛けは去年非常につらい時期に 癒月ちょこ さんと 白銀ノエル さんを視聴することが物凄くメンタルの助けになったのが入口になっていて、それ以降変わらずホロ箱推しですが、そこから初めて認識したメンバーが沢山いるのでにわかと言えばにわかです。 箱推しになって以降に多くのメンバーの話を聞くようになるのですが「あーこういう所はよく似た経験しているんだなー」と思うような話を聞いたりして益々好きになったりします。しかしこういったことは彼女達の一側面が私の一側面と似ているという話であって、当たり前ですが自分だけに特別に発生する話ではないのです。 ですので、彼女達の私に似た側面の他には私と相容れない側面もあるやも知れずで、そういった面までは、中の人と直接的な交流があるわけでも無いので分からない訳です。 実際の所、人と人の関係はそれが何十年も連れ添う夫婦でもどちらかの死に目でようやく知らなかった一側面が知れると言ったこともよく聞く話なので、それが画面の向こうならば尚更知ったふうな顔は出来ないなと思えますし、私も人生で随分理解者面した人達に苦しめられたのでその辺りを常に意識しているように思えます。 まぁしかし、ことホロ箱推しになってからはメンバー全員に好きになってもらうことを基本姿勢にし生きてきた気がするのですが、結局その答えは「自分自身に誠実に生き、メンバーが辛そうに見えたら自分が出来そうなサポートをする」と言ったところで、例えば各メンバーに合わせターゲットして気に入られるような態度をコロコロ変えるといった姿勢はおそらく逆効果じゃろな!と言った仮定がベースにあります。ですので、嫌うなら嫌ってくれ!俺は好きだからな!みたいな感覚ではありますねw とは言え、ネット環境を維持するだけでも金がかかるのに、まぁ極貧の俺なんぞあまり出来ることは無いので、色々自分の出来そうなことをやっていますよという話ですね。 ですので、これからもマイペースで自分の思う...

デブと武術の親和性

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  今回は武術界では良く言って巨漢、悪く言ってデブが批判される傾向にあります。 かくゆう私も柔道で筋肉ムキムキのマッチョになったあとにしばらく運動怠っていたら100Kg超えのデブになったからこそ自嘲としてこういった表現を使えると思っています。 これについて、最近このようなポストを見かけました、 仕事忙しくて週1〜2コマの稽古しかできなくても気合い入れてやれば余裕で体型維持できる。 それすらやってないのに金とってたら詐欺でしょ、何を教えるんだよ、稽古してないのに。 こちらは、ネット上で密かに私が敬愛している  @0054_yokohama   さんのポストです。 この方は八卦掌の伝人である以上に普段のポストから忍ばれる人柄が好きなのですが、色々内に秘める思いはあるでしょうが私のネット上での印象からはアスリート系八卦掌という方向性のように感じていて、私等とはアプローチが違うながらも有無もいわさぬ説得力を持った方と思っています。 この一つ前のポストも含めて氏はデブに厳しいので、ポストを拝見するたびに耳が痛くと言った所です。 さて、ここまでは前置きです。 では本当にデブは武術に不向きなのか?といった私見です、ここ詳しく言及すると現在のところ稽古不足でもあり、自身ではもうデブではないと思っていても、中肉中背の方ぐらいからは「おめぇはデブ!」と指摘されれば「ぐぬぬ」と言った体型であるためデブの言い訳と判断されるやも・・・ しかし、それも覚悟の上で「しゃーなし!」と記述します。 さて、私が巨漢の武術家として思い浮かぶ方と言えば・・・ 王樹金 、 楊露禅 、 ミカエル・リャブコ 、などの名前が浮かびます。しかし、まぁ「こういった名だたるの人物がデブだからって、おめぇがデブで良いわけじゃねーだろが!」 と言われれば言い返す言葉がないわけです。  ただ、これは古武術での柔術を通しての自身の体認とそこでの見聞の話ですが、例えばそれなりに自重を有効利用できる技術を身につけると、崩しにしても当てにしても移動にしても効果が大きくなるのは事実です。 例えば私自身は経験していないですが身に合う甲冑を着ての技の効果は大きくなると言い、ベスト型のオモリを着込んでの技や人をおぶっての技の効きが大きくなる実例を受けの立場で体認はしていますし、当時道場でも指導者から私が...

私の武術観とガンダムでの「重力」に対するアプローチの違い(ニュータイプとは?)

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  さて、一般的な伝統武術で現代では重力はとても重要な要素であることは周知であるように思えるのですが、実際私が武術に興味を持つ以前から当たり前ですが先人は体認を様々な表現を持って伝えようとしていたようです。 そういったことは所謂 武術研究を深く行っている多くの方々が書籍などで解説していますので、浅学な私等はまぁ喋れば喋るほどボロが出るような話ではあります。 ですので、今回は「私がどのような経緯で重力の重要性に気づき、また重力に対する認識の違いでどういった世界観が構築されるか? 」と言ったところの考察をしようかと思います。 まぁその比較対象として「ニュータイプ」のような「無重力の宇宙に出て人の革新が起こる」といったようなガンダムでの解釈と比較しようかなと。 << 四心多久間四代見日流 >> こちらの流派は故 黒田鉄山 氏の「 気剣体一致の武術的身体を創る 」という書籍で解説されている柔術流派です。 手元に書籍が残っていないため大半は私の記憶での記述になりますので悪しからず。 さて、こちらの流派の解説として免許だったか目録だったかまでいくと「皆坊さんのようになって護摩を炊いたりする」といった師の祖父の話が紹介されています。 この流派の「無足の受け身」の説明などを読んで、「重力の働きを神仏の力のように感じたのかもなぁ」と思ったりしましたね・・・ ほんで、「もし地球上すべてのものに等しく加護があるものを愛と規定するなら重力がそれだよな」と思ったりしたことを思い出しました。 まぁ実際のところ愛の定義はという話になると人間の範囲なら心的状態で限定しても問題なさそうですが神仏ともなると 波形情報 での天文情報に当たるものがまぁ妥当だよなと思ったりはします。 この著書には氏の祖父が経験した心法的なものの稽古の逸話が語られていたりで当時は・・・というか今思い出しても少しワクワクしますが・・・ 幻覚の饅頭を人に食わせるとか、馬に乗る人を気当てで落とすとか・・・こう思うと恐らく見日流に限ったことではないでしょうが、柔術がニュートン物理範囲のアプローチが段階的に波形情報を利用した繊細な技術に進んでいくようにも思えて、今になって思い出すとコレなかなか興味深いですなぁと。 そういった意味で昔日の稽古はまずは受け身だけを三年やらされたなどの話も頷けたりはします。 現代に合うかどうかはとも...

「抽象表現」や「気遣い」はどのような経験を持って蓄積されるのか?

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  昔と言っても昭和だったと思いますが、テレビのドキュメンタリーで猟師のお父さんが マンタ (オニイトマキエイ Wikipedia)は水面を飛ぶという話をしたそうで、それを聞いた小学生の息子が学校で話したところ嘘つき呼ばわりされ虐められたという話を印象的に覚えています。 小学生ぐらいの子どもは「飛ぶ」という単語でリンクする光景はおそらく鳥などで印象が作られているでしょうから、魚が飛ぶと言われても「飛ぶって言ってもちゃんと飛んでないじゃん」ぐらいのイチャモンを付けるのは想像にかたくないです。  さて似たような光景で私がよく覚えているのは小学一年生のときに知っている魚を発表しましょうと言った授業で、ある女の子が「 クマノミ 」を挙げた所、若い女性の先生に「そんなの知らない」と言われて泣き崩れる光景を印象的に覚えています。 これらは、まぁ別にイジメの原因の考察ではなく、こういったことは子供・大人に関わらずそこかしこで悪意なく発生してしまうアクシデントに近いように思えます。 こういったことの失敗経験の積み重ねから色々学び成長するといった薄っすらとした認識が私にはあるのですが、これは今や特殊な感覚なのでしょうかね? さて、最後に国語の授業で聞いた印象的な話を紹介します。     ピストルが プールの硬き 面にひびき という句についてなのですが、この時の先生は昔教えた生徒に「水面が硬いわけがない」と言い全く理解できない生徒もいたという話をしていて、ものすごく印象に残っています。 私も別に俳句や詩に特段詳しいわけではないですが・・・ なんとも、形容できないモヤモヤした気持ちにはなります。

「愛」の自覚について(アンジュ・カトリーナに捧ぐ)

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  毎度、あの人が好きこの人が好きとか言っていて恐縮ですが、私は アンジュ・カトリーナ さんが好きだったりします。 なんとも素直に自身を表現する方の印象で、特に成人漫画レビューのような性癖に関する開示は、本人の素直さがストレートに出ていて、 詩子お姉さん とはまた趣が違う清々しさを感じる不思議な人という印象です。 で、ですねこのアンジュさんの性癖としてイチャラブが苦手という概ね主軸が私とは間逆なためか、「愛を知らないモンスター」とか視聴者さんに言われていて笑っています。 当人も「愛ってわからんのよ!」と言って頭抱えている様子が本当に面白いですw さて、ではアンジュさんに「愛とはこれだ!」と実際提示出来るものかといえば、まぁ結構これ難しいと思うのです。 実際のところ「愛」と一口に言ってもかなり抽象度の高い単語のため様々な心的状態を含む行動を表現すしますので、私から見ればアンジュさんは「最初から人一倍持っていて自覚してねぇだけじゃろ?」と思えるからです。 単純に性愛から離れた状態のアンジュさんの発言を聞いていると、相手に悟られづらいような気遣いを他者にしている印象です。 最近は分からないのですがアンジュさんが ベルモンド・バンデラス さんとの当たり屋的行動の理由として、「ベルさんが良い男過ぎてすぐ女性を惚れさせてしまうから防波堤になっている」(意訳)のようなことを言っていて、実際、恋愛感情有る無いにかかわらず思いやりのある「愛」を感じる行動に私には思えます。 よくですね、自分では当たり前過ぎて自覚なく出来てしまうことこそ「本当の才能」と言ったりするようですが、そういう意味ではアンジュさんは最初から人一倍持っているから自覚できないだけじゃねーの!?とは思えます。 概ねそんな感じですがアンジュさんに伝わりやすいかもしれないと性癖的表現をすれば、 ・イヤイヤ咥えるチンチンに興奮するなら自慰の延長 ・相手のチンチン気持ちよくしてあげたい思えたら愛があるかも? 実際、性癖なんぞは複雑に絡み合うでしょうからこう単純じゃないでしょうが、ちょっとこんな単純な切り口から考察なりするのも面白いんじゃないでしょうか?

占いについての私の認識(ごっどみおーんの魅力)

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  私はホロライブ箱推しということで普段からホロメンはスゲーなと感心することが多いのですが、例えばホロライブゲーマーズのメンバーもまた独特の凄さを感じていて、「うぉ! 伊達に神系の名を冠していないな!」と言った感想を持っていたりします。 さて本日 視聴した 大神ミオ さんの朝ミオで「占い凸待ち」を予定していると言っていました。 それにちなんで私が大神ミオさんが凄いな!魅力的だな!と感じている一側面に彼女の占いが大きく影響していると感じていますので、そも私は占いに対してどういった認識を持ち、それが何故彼女の魅力の一端を担うのかと言ったところの言及です。 まずは過去ログの 陽性症状とその解釈(映画:サイン) です。 こちらで紹介していますが自身の体認からパーソナルナンバーを1・3・8としているのですが、まぁ例えば 1と8 だけ見れば、これから「 一か八か 」という発想に繋がる方もいるようで、この印象から博打性を連想させるようです。私としてはリンクとは違う解釈ですが、1と8は際の両端という意味では確かに博打性を感じる言葉だなと思えます。 一方、私が挙げている1・8は 混元→太極→四象→八卦 とグラデーションを持つ感覚で博打性など体認上は微塵も感じなかったりします。つまり、同じパーソナルナンバーを持つからと言って、体認上は同じどころか真逆になることもあるということです。 これはとりも直さず、その個人がどういった体認経験を積んできたかがいかに重要かということを示唆していて、パーソナルナンバーに限らずこういった性質のものはその表面に現れた表現の一側面に過ぎないという認識です。 ですので、優れた占い師は占いの技術以上に人を見る目があるといった言説を聞くこともあるのですが、そもある程度の人を見ることが出来るからこそ占いが成立するという認識です。 さて、大神ミオさんですが、ホロメンにゴッドミオーンなどと呼ばれて占いを通してアドバイスを行い皆に頼られ好かれるお母さん的立ち位置のようです、そのことからいかにミオさんが温かい目でホロメンを細やかに見守っているかの一端がうかがえるように思えるのです。 以前、TSで小耳に挟んだのですが 新メンバーの面接に立ち会っていたと聞いていて、実際はローテーションで皆が経験するのかもしれませんが、私とはしてはまさに適任!と思えたりするのです❤️ 余...

陽性症状とその解釈(映画:サイン)

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  M・ナイト・シャマラン 監督の映画に「 サイン 」という映画があります、この監督は「 シックス・センス 」で知った監督ですがとても面白い視点を持って映画を作成するんだなと感じていて、結構好きな監督さんです。 さて、件の「 サイン 」ですが私の初見の感想ですが「統合失調症の陽性症状じゃねぇーかw」という感想で、まぁ我が身でドギツイのを経験しているからこそ感じる面白みがあるんじゃないのかな?と言った感想です。 さて、本題です。 私が陽性症状で苦しんでいた時期に、何かと町中の3という数字が印象に残り苦しんだんですが、何が苦しいかと言うと勝手に順位だと思い込み順位付けされることに憤慨していたんです。しかしまぁそもそも順位という認識が思い込みのように思えます。 さていざ入院して他の患者さんを観察すると、同じような症状に苦しんでいる人が見受けられました、配膳が1番上であるとか、入院階が上であるとかに執着してる患者さんなどがいて、「あーこれ共通する病気の症状だな」と感心したりしました。 今ではブログで考察しているように、かなり視点・認識は変わっていますが、やはり人間の習性の一つの発露だろうなと思えて面白いです。つまりは症状として体認される感覚は同一でも個々人の解釈によって行動に影響が出てしまうのでは?と思えたのです。 ですので私が成長過程で過ごした環境では数字と順位は結びつきやすく、それが檻となりこう判断したとも思えます。 例えば私が 数秘術 (Wikipedia)などが好きだったら解釈が変わったのでは?と思えて興味深いですね。 この当たりの概念の檻によって解釈が変わるとすると、いわゆる現代の月並みな表現で言う競争社会や現代日本の過度に超自然を嫌う社会について、明治時代以降の 神仏分離 で発生した波紋がことのほか大きく思えますなぁ・・・ 神仏分離 と 神仏習合 については別途考察しようとは思っていますが、大雑把に言って格付けを矩とする神道と平等を矩とする仏教が明治以降分離されたことで概念の檻にどういった影響があったかという話です。 では最後に数秘術から見る、私にとって都合の良い私にまつわる数字の解釈です^^     3 → ピタゴラスの定理や気剣体一致、三位一体、真(楷)行草など事象の成り立ちにまつわる印象があります、そういえば私の三層(天体、生態...

キュートアグレッションから見る男子小学生の習性(白銀ノエルさんに捧ぐ)

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  今日の朝に 戌亥とこ さんが  日清食品のどん兵衛  の案件放送をしていまして、普段は好きなVを視聴してるとエロい妄想しがちですが、案件ということもあってかそんな気分にもならなかったので、とこさんのほっぺをつまんで引っ張る妄想して楽しんでいました。 さて、とこさん視聴後に 白銀ノエル さんのサンデーマッスルが始まりましたので、当然 視聴をするわけです。 するとそこで興味深い、 キュートアグレッション  (Wikipedia)という単語を仰っておりました。 細かい解説はなく初耳であっとこともあって調べてみたことが発端とするよしなしごとです。 ざっくり要約すると 「カワイイものを見ると攻撃衝動が起こる習性が人間にある」 と言った所でしょうか? 実際、可愛がっているペット(犬、猫、等)や小さな子供をなどにちょっとからかったり、極薄い意地悪したりしたくなる衝動は私自身も大いに覚えがあり、とても興味深かったです。 さて、これを興味深いなとその因について考察していると、ふと思い出したことがあります。  以前ににじさんじの 七瀬すず菜 さんを視聴している時に「小学生の時に私にいじわるする男子がいたけど、今になって思えば私のことが好きだったのかもしれない、でも決して良い記憶では残っていない」(意訳)みたいなことを仰っていて、あーこりゃ小学生男子にありがちな悲しき習性の出どころはこれじゃないじゃろか? と仮説を立てました。 私は以前から指摘しているように人間は動物の一種でありその習性に抗うのは難しいと主張していて、この視点からの仮説です。 つまり人類は社会性生物として群れをつくる生物だと仮定した時に、カワイイものを見た時に発生する攻撃性の発露は本来はその自然環境で発生するであろう危険に対する警戒態勢の表れではないかと仮定してみました。 結局のところこの攻撃性を含む警戒態勢は群れの守護すべきものに向けられるべきでしょうが、ある程度文化性が進めば自然環境からの脅威は薄まりますので良い悪いは別として過度の安全性が担保されます。 そこから考えると外的要因に向けられるべき攻撃性の行き場が無くなり、守護すべきカワイイものに向けられる可能性の示唆も考慮できるのでは?と仮説を立てて見ました。 すると、どうでしょう 小学生男子の好きな女の子に対する意...

陰陽を体認するとは?(漫画:あかんべェ一休)

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  今回の題材は漫画: あかんべェ一休(坂口尚) (Amazon)から陰陽の体認についての話です。 題名からも分かる通り「一休宗純」の生涯を綴った物語がこの漫画ですが、初読みは30代の頃であったと記憶しています。 で、数年前にKindle版が発売されているのに気が付き早速購入しました。 今回取り上げたいのは 一休と名乗る以前の周建と名乗っていた子供時代のエピソードからです。名門である五山叢林で仏法を学ぶ周建は内部の腐敗ぶりに嫌気が差し飛び出したあげく、貧しい人々に寄り添う乞食のような風体の謙翁和尚に弟子入りをし宗純という名を受けます。 その修業の終盤にこういったやりとりがあります。 謙翁:「わしは おまえを何度か叩いたことがある・・・・・・ あれはな差別の心を叩いたのじゃ」 宗純:「差別・・・・・・!?」 宗純:「和尚様! 平等こそ仏法の根本・・・・・・・ わ 私にはそのような気持ちはありません!!」 謙翁:「そうかな・・・・・・ では なぜ 心の塵を払いたいという?」 宗純:「え?」 謙翁:「おまえが”チリ”という時”清浄”が ”清らか”という時”汚れ”たものが おまえの心の中に生まれるのじゃ おまえが”善き”ものと思う時、”悪しき”ものを生んでいるのじゃ」 ここまで宗純は五山叢林での腐敗の憤りから「清らかに生きる」を眼目として修行しに来たら、坐禅などを行おうとするたび謙翁和尚に怒られるわけです。ここでその理由が明かされます。 ここで語られる謙翁和尚の話は理屈としてはとてもわかり易くとも、その体認(腑に落とす)するのは非常に難しい「陰陽」の法則そのもであると、私も最近気が付きました。 というのも ツイートのリンク 私は最近こういったポストをしたのですがしばらくして「あーこりゃあかんべェ一休のアレだわ!」とハタと気が付きました。 さて、話を少し変えまして私は以前通っていた道場で「武術・武道界って宮本武蔵に呪われてんじゃねーの?」と話したことがあります。 これは、多くの人が天下一(世界一)になることが武術・武道の至高の道のように捉えているように思えて、まぁこれもともとは格闘技の影響かとも思っていたのですが、あまりにも引きずられている人が多い印象でしたのでこういった思いに至りました。 例えば現代の日本という国家をこういった視点で見ると見栄ばっかり張り中身の無さの...

概念の檻から見る情報戦・認知戦の考察

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さて今回は私が良く言及する 情報の檻・概念の檻 を通してどこまで広範囲の影響を与えられるかというSF的お遊びです。  ちょうど にじさんじの方達の配信を見ている時に 舞元啓介さんのことをオリバー・エバンスさんが尊敬している旨を女性ライバーに話していたときに、「自身を持って!」と励まされていた光景を見てとても微笑ましく感じたのが着想の出発点です。 さて、申し訳ないのですが オリバー・エバンスさんも舞元啓介さんも あまり馴染みがないためプロフィールを確認しました。 舞元啓介 (にじさんじ非公式Wiki) オリバー・エバンス (にじさんじ非公式Wiki) こちらを斜め読みさせていただいた所ではザックリ言って舞元さんは元農家の皆に慕われるお兄ちゃんタイプでオリバー・エバンスさんは知的な教授キャラと言った所でしょうか? まぁ舞元さんが先輩ライバーさんのようで、少なくとも単純に頼りになる先輩としてはオリバー・エバンスさんは尊敬しているであろうことは想像するのは容易いです。 この辺のことは実社会でもよくあることでしょうし、またお二方を慕う女性ライバーがそれぞれ応援する構図も微笑ましくも少し羨ましくもあります。 さて、これがどう情報戦・認知戦に繋がるかという しょうもない空想話ですが、昨今のスマホなどをのハード環境を含むネット環境を通してみると、どんなしょうもない事象が発生する可能性があるかというお遊び的考察です。 総務省:エコーチェンバー こちらなどが、このお遊びの参考になる基礎情報が書かれています。 さて、ちょいとここで話題は変わりネットニュースでこういったものを見かけました。 プーチン大統領「最も優先するべきなのは農家だ、農業者への支援は惜しまない」 はい、ここで、オイオイとなりますなw 「じゃぁ何か?オメェは舞元の裏にプーチン大統領がいると言いてぇのか?」とw そうではないんですね、私としてはいようがいまいが関係ないですw ここで考察したいのは『プーチン大統領の農家の支援』というキーワードでそれなりの規模の人間をまとめ上げ、利権構造を構築できるか? そして、「舞元氏はプーチンの手下のロシアのスパイである!」と言うしょうもない認知を発生させることは可能か! という切り口です。 さて、にじさんじライバーを含むVtuberの特徴として、魅力的な外見を通して多くのファンがい...

(再掲)ゲームデザインから考察する思考法

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  今回は私の思考方法について深堀りしてみようというChatGPT君との議論です。 議論を見てもらえば分かる通り何ら特別なところはなく、ゲームデザインの場では当たり前のようにされているのでは?と言った疑問からこの議題が生まれました。 実際、私が浅学なだけでこのような思考法には分類された名前がついていていて極平凡なものの可能性が高いのです。 ただ、これが必要性から生まれ経験を通して私自身の中で組み上げられたところに大きな意味があると感じています。 こういったことは断学の有効性を主張する方の利点とも一部重なるのでは?と感じています。 ChatGPT: ゲーム要素の単純化議論 まず、今回の設問としては「主に歴史系戦略ストラテジーのゲームデザインで行っている思考法って、私がChatGPT君と考察する手順と似てるんじゃないかな?」という考察が出発点です。お題としてまずは  シヴィライゼーション (Wikipedia)を題材に実際の歴史を感じさせつつも歴史要素をゲームとしての娯楽に落とし込むのに要素の単純化を行っていると思えるが、これが私の思考法と似ているんじゃないのか?とChatGPT君に投げかけています。 特にシヴィライゼーションでは文化や技術、宗教の発展を系統樹的に捉えていてそれが非常に私に影響を与えているという前提条件があり、ゲームで主に培ったザックリとした歴史の知識がクレフェルトの「補給線」で飛躍したという話をしています。 厳密に言えば、Youtubeで浸透襲撃さんの 兵站シリーズ(再生リスト) の視聴を切っ掛けに「補給線」に興味を持ったという経緯があります。 この後にシナジェティクスからの影響へと繋がるのですが、『点→線→面→空間(立体) 』といった段階的な思考手順や考察法は「補給線」を読んだ段階で概ね確立されたように感じてはいます。 この次ではちょっと脱線していて、私の武術にどう影響を与えているかといったところの言及ですね。 「武」から「シナジェテクス」への流れとして共鳴テンセグリティが持つ特徴的な主柱の無さからの影響が大きい空間思考を説明しています。 実際にはこのはるか以前から自身の思考形態がクライアントサーバーシステム的と言うよりはピア・ツー・ピア的だと感じていた時期があり、それを思い起こすと共鳴テンセグリティとの親和性を感じますね。 まぁこ...

複数の「因」がもつ一つの「果」(ちょこ先生はよく寝る)

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   本日の朝は七瀬すず菜さんの朝すず視聴しようと思っている矢先に2度寝してしまうという体たらくでしたが、冒頭だかにちょいと「やたら寝てしまうのだが原因はなんじゃろか?」みたいな話題をリスナーと話していたようです。 さて、2度寝から起きたときに結構前に癒月ちょこさんも同じようなこと悩んでいると言っていたなと思い出しました。 これについて、あくまで自身の体認経験範囲での見解です。 母親がそうだったんですが、たまに一定期間 凄く眠くなるらしくよく横になっていました。 何かと寝てしまうという表面上の現象だけでは考えられるその原因は多岐にわたるのではとは思えます。 数年前に私は逆にあまり寝れない時期があり所謂ショートスリーパーとか不眠症?みたいな時期があって苦しんだのですが、最近は逆に寝てばっかりいますなw では私が人生で一番活力に溢れていた時期はと思い起こすと、結婚生活していた頃で単純な多幸感を含む性行為が大きく影響していたように思います。 この辺は詳しくないのですがホルモンバランスがどうのと言う生物学的にしろ陰陽和合みたいな宗教的な観点にしろ「そういうこともあるかもな」程度の体認はあります。  ですが他には占いの時に大神ミオさんが言っていた「占いはMP使うのよ」という話もあるように思えて、マナなどとも表現される生体エネルギーみたいなモノの減少枯渇による回復のために寝てしまうと言うのもあるかもなと、また、生態波形ネットワークの観点からは群れのためにMPなりマナなりを提供して減少枯渇しているとか… この辺は全て同じことの一側面とも感じます。 特殊な場合なら催眠術等で何かしらをトリガーとして寝てしまうとか、そんなのもあるかも知れませんし、前述したものが全て絡み合っているかも知れません。 いわゆる一般的な風邪もそうですが表面上に現れた現象がよく似ているからと言って、同じ因果ではないものも多くあるでしょう。 余談ですがよく耳にする「西洋医学は対処療法」と言うものを真であるとすれば、西洋医療は因果の「果」に対しアプローチするので素人目にも効果が大きく見えて、実は根本治療になりにくく、逆に東洋医学は因果の「因」にアプローチするため即効性は低いが体質改善を含む根本治療に向く… なんて見方も出来るのでは?と思えます。 どないじゃろか?

占いとの距離感(大神ミオさんに捧ぐ)

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  本日は大神ミオさんの朝ミオをうとうとしながら聴いていたんだけども、終わりぎわに自身の占いについての向き合い方について話していて、寝ぼけ眼でしたので勘違いもあるやもしれませんが概ねあまり気にするなと言う見解だったと思います。 これについて、言わんとしていることを理解できているかはともかく概ね同意です。 私の体認経験からすると占いも技術ですから精度も占う人の技量に依存するとは言え、流れの指針以上の提示は基本できないでしょう。ですから集団としても個人としてもそこに他者の流れの影響も絡み合います。 当然のこと全てが思い通りに行くはずもなく・・・と言ったところです。  おそらくミオさんの占いはちょっと性質が一般的な素人認識しかない私のものとは違うようには思いますが、まぁしかし受け取る側の方針としては当たるも八卦当たらぬも八卦で良いんでは?と思えますね

赦しのロジカル性(シスター・クレアさんに捧ぐ)

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  本日はシスター・クレアさんの放送で赦しについて言及していました。 まぁ私等は随分長い間 親を恨んでいましたので、なかなか耳の痛い話であります。 実際の所、他者にもう赦してやれよと言われて ハイそうですね^^ と簡単に行くはずもなく、大抵は「うるせーな、おめーに俺の何がわかるんだよ」、となるのが自然では?と思います。  ですが、自身のパターンで恐縮ですが・・・ まぁ憎んでいた人間がどのような状態であったかを経験することで なるほど となるこことはあるようです。 「あーこりゃ、どうにもならんな」という状態を経験したことで私はある程度 赦しを体認することが出来ました。 よく私が言及するように人間は動物の習性からは基本 逃れられないので限界があるわけです。 で、あくまで私自身の話にはなりますが、「赦し」と「体認を伴ったロジカルシンキング」は必須と思えます。 宗教的な説法の多くが卑近な例え話をして「我が身を振り返ってみよ」となるのは解釈を通したロジカルシンキングを提示しているようにも思えますしね。 なので、まぁ漠然と「赦さなきゃ、赦さなきゃ」と頭を抱えるのは逆効果に思っています。 もし、あなたがこれに立ち向かわなければならない時が来るなら、きっと何かを経験する機会が訪れるのでは?

猫と私

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  昔住んでいたアパートは1階だったせいもあって猫が1匹ちょくちょく遊びにきていました。 ある日のこと猫がメジロを咥えてきて私の前にポンと置いてくれました。 そりゃ俺はそれを食ったりはしませんので猫のために用意した餌入れに置いたんだけども、やはり咥えてきて私の前におきます。 今思うとちょっと違った思いが私にはありますが、当時は「猫は飼い主を手のかかる子分か子供と思っている」という話を思い出して感心したりしました。 確か2、3度繰り返して私は寝たかその場を離れたかした後に餌入れを覗くと綺麗に食べたようでした。 猫はまぁ俺に食べて欲しかったんでしょうが、まぁ食べないわけです。猫がどう感じたかはともかく私は猫から想いや行動を通して学びを得たわけです。 ちゃんとギブアンドテイクが発生していて猫が私にむけてくれた愛情は十分感じられました。 これは師が弟子から学ぶ、親が子から学ぶ、教師が生徒から学ぶと言ったことと同様に思えます。 違うのは人間同士の関係はいずれ何かしらの立場になることを通して師や親や教師の想いに気付くときが来るのでしょうが、あのときの猫はどうなんでしょう? そんなことを考えていたら猫が死んだ後に霊となってあの時に私の想いに気付いてくれていればいいなと思ったりはします。  ありがとう💕

情報を信じる・身体を信じる

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  情報を信じることは他者を信頼すること、身体を信じることは自身を信頼すること。 これは以前に私がXで投稿した言葉ですが、これにはそれなりの考察を持て一言に纏めた言葉です。 実際はここで記述するものよりだいぶ雑多な思考から生まれたものではありますが、少し整理ができたのでXに投稿しました。 これについてこのブログでも紹介します。 思考実験として曲がったスプーンが転がっているとする  1・手で  2・足で  3・マジックで  4・道具で  5・PKで で可能であると仮定した時に曲がった状態からの判断は可能か? 私は出来ないと考えますが、ここで提示したい問題はそもそも論としてスプーンなんぞどう曲げようが結果があればいいと考えれば思考する必要はないわけです。 しかし、まぁ何かしらを学びたいと考える時にどう曲げたかは技術取得の問題として大変重要となります。 ここで例えば複数のスプーンをどう曲げたか見破れればその技術を伝授しようと言われた時に、ことこの例題に限って言えばわかるわけがないということです。 しかも、複数の方法を混ぜることにより選択の失敗をすれば出題者はイチャモンつけ放題となります。 まぁ私はブログなどで波形情報からシャマーニズムについて言及していますが、まぁこれおそらくですが自然環境だけで学ぶものとテクノロジーとないまぜになったものでは学ぶ難易度は格段に上がるだろうし、ここに人為的な悪意の偽情報も混ぜれば困ったことになりそうです。 で、ですねこんな状況でなにか学ぼうと思ったら私にどんな成功と失敗を期待しているのだろうか? という意図について考察すればなにか学べるのでは?と思えます。 例えば、  悪意のある甘言からはコントロールする指向性  悪意のある反論からは精神的圧迫  善意のある甘言からは有利点の指摘  善意のある反論からは間違いに対する忠告 他にも色々あるでしょうが単純にこんなものが浮かびます。 そして当然ですが各情報は各概念の檻という価値観を通すためそこにどうしても何らかの意図が乗ってしまいます。 さて本題です。 私がこれらから思いを馳せるのは三国志などで将軍や軍師が間者などから複数の情報が上がったときに近い状況と思えるからです。 こんな状況では最終的に卜占等の重要性が非常に高まるのでは?と思えるんですよね。 そしてこのような状況はSNSを含むネット...